短編小説
2年前、UCCに応募したコーヒーにまつわる小説。■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ 「休憩。缶コーヒー一本分」 3月半ば。就職前にせめて一週間、海外に行ってみたい。一番近い韓国でいい。10万あればいける。バイト仲間にかたっぱしから電話して、「日給1万2千円。土日休みなしで明日から8日間連続勤務」を見つけた。トータル9万6千円。勤務時間は朝8時半から夕方6時まで。もちろん飛びついた。自動車会社の下請けの小さな工場。工業団地の中らしいのだが、空き地が多くて団地には見えなかった。働いているのは3人。社長が1人で、2人はヒラ。といっても社長とヒラの区別はなく、3人とも油まみれで働いている。バイトは呼ばれれば走り、工具を届け、油を拭く。3人はほとんど口を開かない。もともと無口なのだろうが、とにかく忙しいのだ。朝8時半に行けばもう3人いる。夕方6時になっても帰るのは僕だけ。昼飯30分。正式の休憩はそれだけ。しかし-工場の前に白いライトバンが止まる。高松電気の社長だ。社長といってもここと同じ小さな工場の経営者。同じ工業団地の仲間だ。手に缶コーヒーを抱えている。ちゃんと5本。僕の分も忘れていない。しかもホット。「高松さんがコーヒー持って来てくれたから」社長のこの一言で休憩が始まる。時間は缶コーヒー一本分。初日、バイトの理由を尋ねられ、「就職前に海外に行ってみたくて」と答えると、「好きなことしないとね」と高松社長は笑った。しかし、僕の話はそれきりで、あとは仕事の話、それも親会社の噂ばかり。うちの社長も日に2、3回、油まみれのまま黄色い軽トラックで出かけてゆく。途中でむこうの人数分、缶コーヒーを仕入れているに違いない。6日目、朝8時半。軽トラックの中で社長が待っていた。工場のシャッターは下りている。社長は助手席のドアを開けた。「ちょっといいかな」社長は缶コーヒーを1本、助手席の僕に差し出した。黙って受け取り、プルを引いた。社長も自分のを開けた。「引き抜かれちゃってね。二人とも」社長の目に涙が浮かんでいた。「仕事もさ、持ってかれちゃったよ」社長の缶コーヒーは震えている。「今日までの分は用意したから。悪いね。韓国行けなくなっちゃったかな」「大丈夫です」そう答えてから計算した。1万2千かける6。7万2千。なんとかなるだろ。ポケットから茶封筒を取り出して僕に渡すと、社長は黙った。コーヒーも飲まない。僕は一口飲んだら何か言おうと決めて、コーヒーを口に含んだ。温かくて甘い。とたんに胸が締め付けられ、泣きだしそうになって飲み込んだ。もう飲めない。「これ、いただいて帰ります」そう言って持って帰った缶コーヒーは中身ごと駅のゴミ箱に捨てた。あれから14年。缶コーヒーのホットを飲むたびに社長を思い出す。