江戸に仇をとられてか
杉浦日向子;あまり大きい声ではいえませんけれど、歴史学者の書いた江戸はちょっとね(笑)。江戸とはこういう時代というのが、その先生の頭の中に最初からでき上がっていて、それに即して資料をそろえるので、偽証事件になりかねない危うさを感じますね。資料は、ぼろくそものも、高い価値のものも羅列するべきなんですよ。それを秩序だてて並べるともう作為的になって、そこにあるものは資料ではなくて、裏側で、しめしめ、カードがそろったぞとほくそ笑んでいる学者の顔でしかないんですね。三浦雅士;これは痛烈ですね(笑)。でも、そういう中で、最初にもいったけれども、前田愛さんの「鎖国世界の映像」とか「幕末・維新期の文学」「幻景の明治」なんかは、非常にアカデミックなんだけれども、たとえば綱吉のホモセクシャルについて延々と書いたり、けっこうおもしろさを残している。杉浦日向子;本当におもしろい世界があるんだよといって、のぞき見する時のワクワクしたものを、前田さんはきちんととらえていらっしゃるという感じですね。三浦雅士;それから、田中優子さんの「江戸の想像力」とか、森下みさ子さんの「江戸時代の微意識」も非常におもしろい本でしたね。杉浦日向子;森下さんの本は、春信の美人画から入って、「微意識」というタイトルそのままに、本当にひそやかなささやきのような本でしたね。もう少しのぞき穴を広げてほしかった。田中優子さんの方が大きな声でいっていますね。田中優子さんは姉御肌なんですよ(笑)。三浦雅士;本だけ見ると、確かにそう(笑)。杉浦日向子;田中さんは、闘う学者という感じがして、ジャンヌ・ダルクのようです。三浦雅士;田中さんが書いた平賀源内と森下さんが書いた鈴木春信は、ほぼ同時代人です。でも、平賀源内の方が声が多きかった(笑)。杉浦日向子;春信は虚弱体質ですよ。浮世絵がヒットし過ぎて、描き過ぎで早死にしましたものね。三浦雅士;源内は発狂するぐらいに強かった。だから、源内を主に扱っている田中優子さんの方が、源内的に声が大きくなって、春信の方にシンパシーを感じている森下さんの方がひそやかになって、あれは最後に子供の話になって終わるんですね。杉浦日向子;そうです。森下さんの本を読んだときに、クッキーの缶にはいっているプチプチをつぶしていく作業に似ているなと思ったんです(笑)。田中さんの場合は、要らなくなった、少しかけた茶碗を派手に割る豪快さに似て、同じ女性でも、これだけ攻めていき方が違うという感じがしました。 講談社PR誌「本」1989年7月号本屋で、タダでくれるPR誌も本を買わそうという扇情的な意図があるから実に面白い記事が溢れている。タダでも、侮り難いものは敬意を表している。杉浦日向子の言っていることは、実によくわかる。役人になった友人は、役所を背負っておるし、大手企業にはいった奴は、定年退職後も大手企業を背負ったつもりで鼻にかけて暮らしている。文藝や学問やっている人たちだって、テーマに依存して、対外的なエキスプレッションが変わらない筈がないと思う。杉浦日向子は、もともと時代考証屋さんだから歴史屋の講釈に騙されていては、勤まらない。それにしても時代考証がなりたつ江戸は、我々に地続きだと思わずにいられない。「実は江戸時代は続いていた・・・」とは、たまゆら1/f氏の嘆息だが、つくづくわが世は、江戸の底板とどぶさらいが暗渠続きだという気がしてならない。明日にでも、仇討ちの現代風再生を話題にするつもりだ。「拒絶する精神」でご紹介したlalameansさんの怒りを、せっかく耳にしたわけだから自分的にも少々総括しておきたいと思う。実は、以前にも述べたが母方は赤穂浪士の家督を継いだ百姓家の筋だ。婆さんが粗末にしておらねば、相当規模の歴史資料が農家の蔵に潜んでいた。自分がみただけでも、げんのうで叩き折られた日本刀の菜斬り包丁以外に吉良邸へ討ち入りに際して装束した小袖や、帷子は記憶に鮮明にある。子供心にも腹が立つほど粗末に保管されていて、無教養と戦後動乱期の価値転倒期ならではのなせる事態とはいえ情けなかった。お宝をぞんざいに扱っているからではなく、怒りはその代々伝えてきた歴代の祖父母たちの意思を介しないアプレゲールな感覚にである。どうも、最近われわれの社会が江戸に仕返しを喰らっているような気分がしてきた。士農工商の身分制度が厳然と横たわっていた時代の方が、余程潔く、昨今は四民平等の建前の物陰で、こそこそ役人や大企業の社員らが小汚く私服を肥やしている姿は卑屈なばかりでなく、痩せ我慢も小粋さも見事に払底して無粋極まりない。どいつも、こいつも獄門晒し首。遠島申し付けしてくださる奉行さまに登場願いたい気分である。