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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2005.09.30
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カテゴリ:ヒラカワの日常
テクロノジーというものが、
人間を幸福にするかどうかと
考えてみてもはじまらない。
そもそも、経済の進展や、テクノロジーの
進歩というものは、
社会の自然過程というべきもので、
原始的な生活に後戻りしてゆくことはないだろう。
すこしは、行きつ戻りつしてもらいたいけど。
まあ、欲望は増殖することがその本質だからそうはいかない。

しかし、これがどこまで進展するのか、
どこかで、自然環境との取り引きによって
平衡するのかは、誰もその答えを持っていない。
それは、宇宙の果てのその先に何があるのかといった
議論と同種の、「人間の手に負えない問題」なのだと
言う他はない。

一方、幸福という概念は、極めて個人的な価値観であって
貧乏生活の中にも、屈託のない笑いが充溢することもあれば、
金品財宝に囲まれた不幸な精神というものもあるわけである。
その意味では、
進歩というのは、「手に負えない」絶対的な概念であるのに対して、
幸福は、ひととひと、ひとと自然の間の関係概念であるといえるのかも
しれない。
そしてこの関係は心持ひとつで変容してゆく。

インターネットの発達や、携帯電話の普及は
人間の生活環境をドラスティックに変え、それによって
ひとの精神もまた改鋳される。あるいは、そういった外部環境が
どんなに変化しても変わらぬ精神というものもある。

偶然とは、ひとつの必然である。
アンドレ・ブルトンのナジャを大昔に読んでこんなことを
俺は読み取ったと思う。もう、大昔の話なので、
そこに何が書かれていたかはもうほとんど覚えてはいない。

なんで、こんなことを書いているかというと、
最近、偶然というなの必然、つまりはシンクロニシティの謎の尻尾が
すこしばかり、見えてきたように思えるからである。
これまで、よく見えなかったものが、見えてくるという意味では、
テクノロジーというものが、果たしてくれたひとつの成果だといっても
いいかも知れない。

この一週間、会うはずのない人々とお会いする機会が頻発している。
シリコンバレーでお隣で会社を経営していた茂田さんから
突然、電話がある。
「偶然、ブログを拝見しまして」
「おお、お久し振り、それじゃ月曜日にでもお会いしましょう。」
この二日前、やはりシリコンバレーのビジネスカフェで
オフィスマネージャーだった奥山くんからメールが入る。
「帰ってきました。」
「おお、元気?それじゃ今晩飯でも食いましょう。」
今日は、アーバン時代からの社員だった待場くんが
ニューヨーク役者修行から戻ってきたという。
「お久し振りです。」
「おお、じゃいまから寿司でもくいにいくべ。」
こんな風にして、おそらくはそのまま生き別れになってもおかしくはない
人々が偶然にも集まってきたのである。

すこし前に、偶然ブログ界隈で、程よい倫理観と理性によって
ほぼ完全に統御された文章をよんで、溜飲を下げたことがあった。
ララビアータというブログを開いていらっしゃる田島さんという大学の先生のサイトであった。
ここに、偶然ウチダくんのコメントが入っており、
田島さんがウチダくんの大学の先輩であることを知る。
その、田島さんがこのカフェにも立ち寄ってくれたらしく、
ボクシング話に呼応してコメントを入れていただいた。

さらに、すこし前、ミーツの青山さんらとだんじり祭りを見に行った際、
後の宴会で、俺がしばしば立ち寄っているブログの主、
ハイシさんとお会いした。
初対面であったが、お互いが共通の楽天ブログでお互いの記事を読んでいたので
旧知の間柄のように、自己紹介なしで打ちとける。

いや、そもそもブログがなければ
江さんをはじめ、ミーツの方々ともお会いしなかっただろうし、
ましてや田島さんと言葉のやりとりをするなんてありえないことだった。

そうだろうか。
ブログがあったから、俺たちの出会いが用意されたのか。
ひょっとしたら、これはブログがなくても、
偶然という名のもとに、おこりえた出来事だったのではないのか。
おそかれはやかれ。

そんな風に思えてきたのである。
ブログに残されたログは、
これまで見えなかった出会いまでの痕跡が、見えるようになった
ということだけではないのかという、ことである。
決してリニアではない、出会いまでの道筋が、
ブログを通して、すこしだけ見えるようになったということだ。

「何事によらず、チャンスに乗ずるのは下卑たことである」とは
太宰治であるが、
やはり、チャンスにも見えない意思が働いているのである。
いや、見えない意思がないところでは、
偶然は実は起こりえない。
意志のないところでは、
隣りに座っている人とさえ出会うことはないのである。

偶然は神の意志ではない。
俺の意志であり、俺自身がまだ気が付いていない意志である。
どうも、そういうことらしい。








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最終更新日  2005.09.30 18:15:33
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