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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2006.02.20
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カテゴリ:ヒラカワの日常
工業化以前の日本は
貧しい極東の島国であった。
しかし、チェンバレンをはじめとする
多くのジャパノロジストが賞賛したように、
衣食住に関しての完璧にみえるひとつの生存システムが
機能する安定した貧しさが日本を覆っていたのである。
産業は、農林水産業といった第一次産業が中心で、
この構図は、いまでも開発途上国においては、
大きな差はないだろう。

工業化が、変革した最大のものは
土地や、海洋といった自然のインフラの呪縛から
人々の生活を解き放つということであった。
このことは、同時に天候や、季節といった
予測不能の条件に縛られた生産の現場を、
管理された計画的な生産工場へとシフトさせ、
さらには、労働と生活といったものを
分離させることになった。
土地に縛り付けられた生産活動は、
土地との対話なしには成立しない。
農業を考えてみれば、これはすぐに分かる。
種まきも収穫も季節の循環の中で行われ、
生産性は、降水量や温度といった自然条件によって左右される。
したがって、その中で暮らす人々にとっての最大の関心事とは、
右肩上がりで収穫量が増してゆくことではなく(それは
原理的にありえないことだ)、
天変地異や厄災がないこと、
今日と同じ平穏な日が、明日も続いてくれること
であった。
それは、「歴史の効果を最小化する」@レヴィ・ストロース
生活であり、欲望もまた則を越えないことが
明日の平安を保証するといったエートスを醸成していったのである。

産業資本主義を経て、高度に発展したマネー資本主義の下で、
人々の生活は、労働というものが本来有していた、自然的な条件との
「折り合い」あるいは「対話」というものから
完全に分離され、身体的な欲望からも解き放たれた。
マネー資本主義とは、ただ、人間の欲望を象徴する
貨幣の収奪と、富の移転という
ことにフォーカスした人間達によって運営される
システムである。
そして、それは「人間の利己的な欲望」を原動力とした
経済システムの行き着く当然の成り行きであった。
そこには、土地や自然に縛り付けられた人間はいない。
一定の土地から、容量以上の収穫をして、土地がやせ衰えたとしても、
資本の論理は、その土地を捨てて新たなフロンティアを
探せば、より多くの収穫を得られるだろうと囁く。

そして、このシステムの中には、
もはや、ものを生産するというプロセスは
存在しておらず、システムの外部に追いやってしまうのである。
アメリカにおける中南米。中国における辺境。
日本における、アジア発展途上国の生産プロセスは、
それぞれの国の経済システムの内部から追い出され、
外部化されたものとならざるを得ない。
生産物はただ貨幣との等価交換によって
システムの内部に繰り入れられるに過ぎない。
この「生産の外部化」こそが、
経済成長フェテシズムという病症を加速させたと、
俺は見ている。

全体を見ないことを、フェテシズムと定義するならば、
経済成長とはまさに、コスト、生産の現場、土地、自然の法則というものを
外部化し、ただ外部から還流してくる富と、
その富と交換可能な貨幣だけしか視野に入ってこないという意味で、
フェテシズムなのだといってもいいと思う。

何の話をしていたんだっけ?
そうだ。GDPのお話である。
成長というものを、絶対的な価値なんていつまでも考えていると、
気がついたときは、ぼろぼろの身体を携えた
老ドーピングアスリートと
同じ運命をたどるってことだ。







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最終更新日  2006.02.20 21:38:03
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