カテゴリ:ヒラカワの日常
中学校では問題児で、高校で落ちこぼれ、
大学で教室に座っていた時間はほとんど無い俺にとって、 教育について何か考えるというのは、 盗人が人の道を語るような気恥ずかしさと後ろめたさがあって、 まあ、できればスルーしたい話題である。 それでも、テレビも新聞も鬼の首でもとったように、 嬉しそうに九州の教諭を叩き、教育現場の荒廃を憂うる図を見ていると、 「素っ頓狂なこと言ってるんじゃねぇよ」と言いたくなる。 筑前では、同町役場にメールや電話が殺到、17日までに2500通を超えたそうである。 大半が町や不適切な言動をしたとされる元担任への抗議や中傷だという。 現場で実際に何が起こっていたのか、その空気は良くわからない。 だから、この元担任の教師を庇い立てするつもりはないけれど、 彼に対する抗議や中傷こそがいじめっていうものではないのか。 多くの人が勘違いしているが、 いじめは正義感の欠如によって起こるのではない。 反対である。正義が多数と結びついたところに、いじめが起こるのである。 いじめが頻発しているような教育現場の荒廃があるから、 「規範意識や情操を身につけた『美しい人づくり』」@安倍晋三 が実現しないのではない。 反対である。 社会の規範意識や情操が希薄化しているから、 教育の現場もそれを模倣するのである。 教育は、後に到来する社会を決定する原因ではないのである。 この勘違いが生じる理由は簡単だ。 ひとりの人間の成長を時系列に見てゆけば、教育の結果が、その後の彼の人間性を決定するかのような見かけをつくるからである。 しかし、実際には生徒も教師も、現実の社会を模倣するものである。 意識的にであれ、無意識にであれ、人間が社会的な存在であるとは、そういうことである。 事実、日本の社会が市場万能、グローバリズムの価値観で動いているから、 大学に市場競争の論理が導入され、安倍首相はバウチャー制度 なんていうことを言い出しているわけである。 いじめもまたしかり。弱いものいじめ、異分子排除は、 経済ダーウィニズムが支配する市場社会と表裏をなす現象である。 いじめは、人間が集団を構成する限り、いつの時代にもあった。 誰もが冷静に振り返って見れば、「あの頃はいじめはなかった」などとは言えないはずである。 だから、どんなに教育の現場をいじっても、いじめはなくならない。 これは結論ではなく、出発点である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
これは結論ではなく、出発点である。
という主張は分かるが、これだけ長い文章を書いた末に、元翻訳会社の社長であり著作もある平川氏が結論付けるには、あまりに安易であると思う。 このようなことは、書かれれば「そうだな」とは思うものの、大抵の大人は無意識に感じていることであり、こうした「出発点」は現在まで数限りなくあった。だからこそ、この先の考察が必要なのだと思う。そうでないと、いつまでたっても「出発点」はやってこない。 (2006.10.19 02:15:23)
マスコミの動きを見る限りでは、大抵の大人が無意識にこのようなことを感じているとは思えない気がしています。平川氏が言いたかったのは、出発点を誤って議論を展開していけば絶望的な終着点が待っているだけなので、そこを見誤るなよと、そういうことではないでしょうか。
>こうした「出発点」は現在まで数限りなくあった。 ということですが、平川氏はこの事件を指して「出発点」であると言っているわけではなく、認識としての出発点のことではないかと思います。これまでに平川氏の言う「出発点」に立つべき瞬間は数限りなく存在したでしょうが、社会がその出発点に立つことはなかったように思います。これまで違うところから議論を始めてしまったあげくにこういう事件がついに起こってしまったと言ってもいいかもしれません。 だからこそ平川氏は、出発点の重要さを示唆しようとしたのではないでしょうか。そしてこの先の考察は、もちろん必要ですが、平川氏に委ねるべきものではなくて、その出発点をもとに、政治家、教育関係者、自治体そして個人が考えるべきものと思います。 平川氏は、これから先を考えた上で、このままじゃどうにもならんと思った末、出発点の話をしたのではないかと、僕はこう思うわけです。 勝手に平川先生を代弁するようなことをしてしまってすいません。違っていたら申し訳ないです。 (2006.10.19 11:12:36)
「しかし、実際には生徒も教師も、現実の社会を模倣するものである。
意識的にであれ、無意識にであれ、人間が社会的な存在であるとは、そういうことである。」 社会が動き続けるということは、問題はいまこの瞬間が出発点であるっていうことなんですよね。 今月が、とか、今年が、とかじゃなくて、たった今、ですもんね。 過酷ですよね、それは。だからわかってても逃げちゃうし、もうそういうこと改めて言わなくなっちゃうんだろうなあ。 足下を見続けることは、地味だし、格好が悪いけど、それしか方法はないのだろうと思います。 それにしても、報道のいじめ、競争して誇ってるところが恐ろしくてなりません。 (2006.10.19 11:18:32)
学校って、「建前」を教えるところでいいと思いますよ。いくら世の中にいじめがあろうと、学校がそれを追認する形で模倣しちゃ駄目でしょう。学校は、「いじめは駄目。先生は許さない。」これを通すべきだと思います。
この担任は、自殺した生徒をからかいの対象にしていたなどの報道があり、これが真実なら、いじめから生徒を守るべき立場の教師の行動としては、いじめに加担していたと見做されて不思議は無いでしょう。だからやはり遺族にきちんと謝り、事実関係の把握が不十分だったとかで、謝ったことを撤回するべきではないのではと思います。 今回の記事にはあまりうなずけなかったのですが、たぶん、私とヒラカワさんの出発点が違っているからだと思います。 (2006.10.19 18:48:03)
ヒラカワさんは学校が社会を模倣してもよいと言っているのではなくて、どうしたって模倣しちゃうものなのだという現象について言及しているだけで、それがいいとか悪いとか、価値判断については言及しておられません。ヒラカワさんも「いじめは駄目だ」という認識をお持ちのはずです。
だからこそ、社会がこの駄目教師を「いじめ」てもいいのかと、そういうことだと思います。この教師が報道を苦に自殺したとしたら、おそらく多くの人は「してやったり」という感情を抱くのではないでしょうか。 もちろん、この教師がしてしまったことは許されるものではないし、刑事罰(業務上過失致死など)を適用することも考えなければならないかもしれません。しかし、それは遺族と教師の問題であって、むやみに社会的リンチを与える権利が私たちにどれほどあるのでしょうか。 この教師が謝らなければいけないのは当然のことです。教師という職を辞しなければならないとも思います。ヒラカワさんを含め皆が同意することでしょう。でも、この教師は私たちにまで謝る必要はない。正義感を振り回してこの教師を糾弾する人と、先生の言動に乗っかって亡くなった男児をいじめていた子供とにどれほどの違いがあるのだろうかと、私も疑問に思うのです。 学校がいくら建前を教えても、子供たちは敏感だから社会の本音を吸収します。もちろん「いじめは駄目。先生は許さない」という姿勢は大切です。でも、その先生の言説を後ろから支えるはずの社会が弱いものいじめをしているようではどうしようもないのではないでしょうか。 (2006.10.19 20:58:11)
ヒラカワさんが「素っ頓狂なこと」と表したのは「いじめなんてどこでもあるんだからガタガタ言うんじゃねぇ」ということではなくて、「てめぇのやってることと『いじめ』はどう違うんだよ」ということだと思います。
いじめはどうしても起こってしまう。じゃぁ起こった後にどうするのか、これは社会の在り方で大きく変わるんじゃないかとヒラカワさんは言いたいのではないでしょうか。また、いじめの背後にあるものを大局的に見直せよと言っているように感じました。 のぐちさんとヒラカワさんの出発点に、そう違いがあるとは思えません。 長くなってしまいました。ヒラカワさん、すいません。 (2006.10.19 20:59:28)
ヒラカワさんが、いじめを容認する旨のことをおっしゃっているのでないことは辛うじて読み取っておりました。また、さわかみさんのおっしゃるように、町や学校が被害者と遺族以外の「社会」に謝らなければならないと思っているのでもありませんので、正義を振りかざしたいじめをやっている社会の側に、町や学校や担任を責める資格があるのか、というのもわかります。
でも、学校は世の中がどうあれ、いじめを容認して欲しくない、というのが私の立場です。もう少しいえば「学校だけは」。 この「学校だけは」というのが今回のヒラカワさんの主張の中には見あたらなかったので、ああ、この辺が違うからあまりうなずけないのかもしれないな、と思ったわけです。 (2006.10.20 00:17:28)
誰かが謝って(責任を取って)お終いにできるような問題ではない。
いじめた人たち、いじめを見逃した人への「恨み」を晴らすために、 自殺を選択したとしたら、効果的だなと思わせるような世間の流れ。 悪者を探しは結局、同級生、先生、校長、教育長、、、 どんどん上にあがって、最後はどこまで行くのだろう。 いじめを把握してすることが、問題なのではない。 いじめを把握して、解消(解決)するとは結局なんだろう。 いじめられる子どもが、転校するということかしら。 「たったこれっぽちの”恨み晴らし”のために、死を選ぶなんて もったい、ここでふんばろう」と思うようなことってないんだろうか。 『我利馬の船出』の少年のように、絶望的な環境を自らの力で乗り越 えるための情報が不足しているのではないだろうか。 こんなに情報が溢れている世の中なのに。 この先の人生への希望を失わせているのは、私たち大人なんだろうなあ。 「私」に何ができるのかを、考えなくてはならないと思いました。 (2006.10.20 12:36:04)
のぐち様
なるほど。「学校だけは」ですか。私はヒラカワさんではないので、なんとも言えませんがヒラカワさんにとって、やはり社会と学校は切り離せない相似形のものとして認識されているように感じますね。 おそらく「学校だけを論じても意味がない」「学校だけが『いじめを容認しない』だけでは不十分である」とそういうことではないでしょうか。 うーん、私はのぐちさんの言いたいことを理解できていないのかもしれません。たぶん、私が書いていることはのぐちさんもご承知ですよね。 世の中と学校を切り離して論じることは可能か?といった類の問題が含まれているように思います。その点で、ヒラカワさんとのぐちさんには距離があるのかもしれませんねぇ。 いじめを無くすための議論と、いじめにいかに対処するのかという議論と、複雑に絡み合っているということでしょうか。 ぱっとしない応答で申し訳ないです。 (2006.10.20 17:00:54)
「学校だけは」と言う言葉に「あ、それは不可能」と思ってしまいました。「学校にしか」と言う事はあっても「学校だけは」と言う事はないと思います。なぜなら学校と言う場が子供の集まりだからです。人はいじめたいとか意地悪をしたいと言う気持ちを何かでくるんで胸の底にしまいこむと言う作業を繰り返して大人に成っていくのだと思います。勿論他の気持ちも同じです。大人って言うのはそういうものではないでしょうか。
昔父が酔うと歌う歌に「センセ、センセと威張るなセンセ、センセ生徒の成れの果て」と言うのがありました。生徒がそのまま先生になるというシステムを変えて、先生になる前に何かになってから先生になるという風にでもしない限り、学校と言うのは生徒と生徒だった先生しかいなくなるのです。大人が先生にならなければ学校は治らないと思います。昔は子供はいつまでもは子供でいられなかったから、師範学校を出てすぐの人も大人として扱えたけど、今の日本は子供は大人に成れずに年を取る社会なのです。それは幸せな社会かもしれないけど、教育と言う事に関しては絶望的に不幸な事だと思います。 (2006.10.20 20:53:27)
雪国のTTさま
>人はいじめたいとか意地悪をしたいと言う気持ち >を何かでくるんで胸の底にしまいこむと言う作業 >を繰り返して大人に成っていくのだと思います。 >勿論他の気持ちも同じです。大人って言うのはそ >ういうものではないでしょうか。 いじめを受けた経験も、人をいじめた経験もあるので、非常にうなずける指摘です。 で、先生は生徒の成れの果てだから学校でそれを教えることも不可能だということになるのでしょうか。私も何をやってもきっといじめ自体がなくならないだろうと思っています。でも、いじめがなくならないのなら、せめて、いじめを訴える子供の話をよく聞き、その訴えをきちんといじめだと認識し、いじめをしている子供に対して「やめなさい」という先生、いじめられている子にいじめに対処する術を教える(一緒に考える)先生が増えて欲しいと思うのですが。 子供2人が地元の小中学校で義務教育中なもので、つい何度も書き込んでしまいました。 (2006.10.21 19:48:36)
のぐち様、お返事ありがとうございます。私は先生たちもまた子供であると言いたかったので、彼等に期待をしてはならないと言いたかったのです。
>せめて、いじめを訴える子供の話をよく聞き、その>訴えをきちんといじめだと認識し、いじめをしてい>る子供に対して「やめなさい」という先生、いじめ>られている子にいじめに対処する術を教える(一緒>に考える)先生が増えて欲しいと思うのですが。 それができる人を子供だとか生徒の成れの果てなどとは決して言わないつもりです。私は多分いじめによって学校に通えなくなった子供を持っています。子供がまだ学校での事を何も言いませんので、話の断片から何があったのかと想像するだけです。「あ、それはいじめだ」と私が認識する事を担任の先生は気がつきはしなかった。もしかしたら一緒に笑っていたかもしれないけれど、私はその場にいないから何ともいえないのです。 私にできる事は、辛い気持ちの子供を抱きしめてやる事だけです。大きくなるとそれもできないので、黙ってニコニコと傍にいて、あなたは私の宝物だと折にふれて言い続ける事だけです。今は見ていることしかできません。 のぐち様、もしまだぎゅって抱きしめる事ができる年のお子さんをお持ちなら、冗談交じりでもいいから抱きしめてあげてください。あなたがいないと悲しくて辛いのだと言葉で伝えてあげてください。子供っていわれないと解らないのです。 昔死にたくなったとき、今死んだら父が悲しむ母も泣くと思いました。子供の自殺のニュースを聞くたびに、その子達は親の悲しみに思いを馳せる余裕もなかったのかしらと悲しくなります。 なんだかお返事になっていないような気がしますが ごめんなさい。教育の現場にもっと余裕が生まれます様にと祈っているばかりです。 (2006.10.22 00:27:23)
雪国のTTさん
ほんとにそうですよね。わたしも、この書き方じゃ学校ばっかりに期待してるみたいだなーと反省しました。言葉が届かなくてもどかしいときの「ぎゅー」ウチではまだ使える手でよかったです。 でも、子供が10時間も過ごすところ、先生方の創意工夫で、少しでも居心地のよいところにしていただきたいと思います。だからTTさんのおっしゃる「学校現場にもっとゆとりを」には、大賛成です。 あ、この「創意工夫」、っていうのは、この記事のことが取り上げられている内田先生のブログ(10/21付、学校のことは忘れて欲しい)から引っ張ってきました。 (2006.10.22 20:37:06)
いじめのというのは、いったいなんなんでしょう?自分を観察するとわかるけど、人、動物をいじめる時とかわいがる時、根っこにある精神は同じだ。ちょっかいをだしたいのです。後輩をかわいがったり。いじめたり。同じ心で行為している。いじめだけを問題にしたり
いじめだけを取り除こうとしても大変じゃないかな。この精神が問題じゃないかね。 (2006.11.12 23:22:08) |