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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2008.06.26
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カテゴリ:ヒラカワの日常
秋葉原の事件に関しては、
何度か書いてきた。
村上春樹について、書いたのも秋葉原の事件があったからである。
そして、多くの方から真摯なコメントやメールをいただいた。
その方々に対する返信の意味も込めて再考したいと思う。

あれから三週間が過ぎ去った。

最初、俺はこの事件について、
どのように語ればよいのかよくわからないと書いたと思う。
それは今でも同じである。
こういった事件について何事かを語ろうとすれば、
それは必ず語り足りないか、語りすぎるかのどちらかになるからだ。
それでも、この事件は俺の毎日通っている交差点で起きたのである。
俺はすこしだけ、あの町に住んだことがある。
俺は「あの時」何故、あそこにいなかったのか。
もし、いたとすれば、俺はどうしただろうか。
そう思うことがある。
いや、よくそう思う。

いまでも、献花台には多くの花が供えられ、
人々が手を合わせている。
座談会のときに釈徹宗さんが言っていたように、
折に触れ、何度も語り、この事件の中にすこしでも希望というものが
あるのなら、その物語を紡ぎださなければいけないということである。

マスコミは、こういった事件の再発を防ぐために
真相・原因を徹底的に究明されなければならないと言っていた。
テレビ朝日のキャスターも、日本テレビのキャスターも、新聞も。
いつものストックフレーズである。
三週間が過ぎて、もうあまり、この事件について報道しなくなった。
一月が過ぎれば、もう裁判まで、誰も報道しないだろう。
それは、最初から分っていたことだ。
どんなに、力んでみても、マスコミの公式見解はこのストックフレーズから外へは
出て行くことができない。
俺はこの「真相究明」という言葉自体に大きな違和感を感じた。
その違和感の因って来るところを手探りで引き寄せたいと思った。
真相の究明、原因の究明。
それは何を意味しているのか。
それが含意しているものに無意識であるような言葉に
この事件を語る資格を与えてよいのか。
たとえば、そこにはこんな言葉が与えられるのかもしれない。
犯人の異常性。
特異な家庭環境。
格差社会。
派遣労働の問題。
秋葉原の特殊性とバーチャルな世界で拡大した自我。
いづれも、幾分かはこの事件を構成した要因のように見える。
しかし、そのどれかひとつを取り出して、
これが原因であるといった瞬間に、
この事件の持つ最も重要な意味は蒸発するしかないように
俺には思えるのである。
真相の究明は、審判の役割であって
俺たちの役割はもっと別のところにあるのではないのか。
殺されたのは友人になりえたかもしれない人たちであり、
殺したのは不可解な隣人だったかもしれない人間である。
俺たちは彼らの可能性としての隣人ではあっても、審判官ではないのだ。

「犯人の異常性」と言うことは、自分は正常であるということを
言うことと同じである。
「格差社会のひづみ」と言うことは、自分はその格差社会に加担した覚えはない
と言うことと同じである。
極端な言い方であることは承知した上で言っている。
しかし、
それを言った瞬間に、自分とこの事件を繋ぐものは
切断されるほかは無いように俺には思える。

たとえば、体の具合が悪いときに、病院へ行く。
胃潰瘍であるとの診断が下る。
そのとき患者は、すこしだけ安心するかもしれない。
癌ではなかったからである。
あるいは、もっと他の見えない重要な病根によるものではなかったと
分ったからである。
胃潰瘍であるならば対処の方法が見つかる。
胃潰瘍という診断は、病根の名指しであると同時に、
身体全体の他の部分は無事であったということを意味している。

今回のような事件の場合、
原因を名指すことの意味もこれに似ている。
異常な犯人。それは、自分も自分たちの社会も、犯人とは別であるという
ことを確認したということである。
自分と犯人との間に、明確な線を引くということを含意している。
原因究明とは、ひとつの事件を合理的に解釈し、
それを全体から切り離して対処するための方法なのである。
異質なもの、異常なものを摘出することで、全体を保守するということだ。
この考え方の前提になっているのは、
全体は健康であるという信憑である。
合理性への信仰の土台には、全体への信憑が隠されている。
もし、全体が病んでいるとするならば、この方法は
まったく意味をなさない。

これとは、まったく正反対のやり方というものがある。
それは、事件とそれを構成したもののすべての特殊性に目を向けるのではなく、
それらと自らの同質性に目を向けるということである。
自分と犯人、自分と被害者、自分とこの社会が
どこかで繋がっているのかを反芻するということである。
直接的に、あるいは間接的に、あるいは何かを迂回して、
この事件は自分の中の何かと繋がっていると考えてみる。
自分は犯人になり得たかもしれないし、同時に被害者になり得たかもしれない。
自分たちはこの社会を作ってきたが、別の社会を作りえたかもしれない。
すべてが、どこかで繋がっており、
そのどれも、自分と切り離すことで、
自らの無謬性や、無垢を確認することなどできないと考えてみる。

今回の事件の中に
もし救いがあるとすれば、
それは、犯人や、格差社会や、ゲーム感覚といったものと
自分たちや、自分たちが属しているコミュニティや社会を
切り離せることができるというところにあるのではなく、
すべてが、繋がっているにもかかわらず、
自分たちは生き残っているということだけである。
残酷な救いだ。
自分は、「あの時」暴走するトラックを運転しておらず、
あの駅に降り立たず、あの交差点を歩いていなかったのは、
自ら意図して選び取った賢明な選択の結果ではなく、
ただ、たまたまそうなったということなのだと思うべきなのだ。

勿論、そんなことを思ったからといって、
何か解決できるわけではない。
ただ、「そこ」が起点であり、「そこ」から考えなければ
何も解決することはないということだけは確かなことのように
俺には思えるのである。
犯人は社会から切断されたと思っていた。被害者は、唐突に
世界から切断されたのである。
俺たちは、この事件の真相を究明することで、再度彼らを切断しようとしている。
そうではなく、犯人と被害者と、俺たち自身をもう一度どうやったら
つなぎなおすことができるのかを考えてみる必要があると俺は思う。

そのうえで、この事件「まで」の、文脈の全体(市場主義社会といってもよい)
を書き換えることができるのかと問うてみる必要がある。
ほんとうにそう思う。

(この事件に関しての内田くんらとの、座談会は
ラジオデイズで公開しています。)





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最終更新日  2008.06.27 21:27:09
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