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『幸福論』について書かれたブログを読ませていただきました。 いろいろな著名人の『幸福論』が紹介されていました。 その中の柳田邦男氏の『幸福論』から、 気付いたことを今、書き留めておこうと思いました。 上手く書けるかしら。 上手く伝わるかしら。 どんな風になるかわかりませんが、 書き始めてみることにします。 柳田邦男氏の『幸福論』には深い深いかなしみがありました。 声にならない涙の跡が見えました。 人生に対する嘆きや諦め、やるせなさがせまってきました。 その正体は 愛するわが子の死以外に考えられませんでした。 だからこそ、 私は決めつけていました。 この『幸福論』は息子さんをなくされてから 書かれたものだということを。。。 それ以外のかなしみを私は考えられなかったから。 で、そのかなしみに私は覚えがありました。 違うのは、 私の息子はまだ、生きているということです。 でも・・・ 私は、私の中で息子を殺しました。 そうです、 私は息子を殺したんです。 息子が息絶え絶えになりつつも この生という戦いの場に立っているというのに。 それでも、 私は私の中で息子を殺しました。 この殺したとは 一体何をさしているのかを考えてみたいと思います。 一緒に死にたい・・・ということではありません。 息子が死んだと仮定したはなしでもありません。 私の中での排除でもなければ、 無視でもないです。 じゃあ、何なんだ・・・と聞かれたら、 幻とでも答えましょうか。。。 理想ではありません。 幻が一番ふさわしい気がします。 私は 私は私の「不幸」に息子をしたくなかったから。 ただ、それだけ理由で幻の息子を殺したんです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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