JINさんの陽蜂農遠日記

2022/05/19(木)16:02

古都「鎌倉」を巡る(その91) :清水湯~啓運寺~妙長寺~亂橋碑~向福寺

鎌倉市歴史散歩(175)

『​鎌倉散策 目次​』👈リンク 「元鶴岡八幡宮(由比若宮)」を後にして、「小町大路」迄戻り「水道路」交差点を右折。 先に進むと右手にあったのが「清水湯」。 ここに日本の洋画家、政治家「黒田清輝邸」があったという。 鎌倉市材木座1-10-24。 旧鎌倉地区に唯一残る歴史ある銭湯。創業は1955年、一時期は廃業も検討されたが、地域の人たちからの是非続けてほしいという 要望に応え、火、木、土、日曜日の週4日間のみ営業している、旧鎌倉地区に唯一残る 歴史ある銭湯であると。 「10mもの天井と広いお風呂」をネットから。    【https://tokyosento.com/archive/national/16484/】より そして次に訪ねたのが「啓運寺」。 鎌倉市材木座3-1-20。 題目塔「南無妙法蓮華経」。 開山は啓運日澄。創建は1483年。啓運寺(日蓮宗)の名はここからくる。日澄死後は無住で長勝寺の住職が兼務していた。啓運日澄は、妙法寺の住職だった人で、法華経の研究書「啓運抄」を書いた学僧でもある。啓運寺には、江戸期に作られたという日蓮上人読経像のほか、漁師からの信仰を集めた 舟守稲荷が祀られている。日本近代洋画を確立した黒田清輝が、本堂をアトリエとしていたこと時期もあり、明治時代には、 小学校の校舎としても利用されていたと。松光山啓運寺 開山 啓運日澄本尊 三宝祖師。 かつて黒田清輝がアトリエにしていたと。 現在の本堂は昭和8年(1933年)に再建されたものである。 本堂は小さなものである。 横は竹林になっているが、四方竹の他に、小振りな根元の節に特徴がある丸竹も植えられていた。 次に訪ねたのが「妙長寺」。 鎌倉市材木座2丁目7−41 「妙長寺」を正面から。 山門右手前には、宗祖・日蓮上人の立派そして大きな銅像が立っていた。 ズームして。 厳しいお顔で。 「文学案内板  妙長寺と泉鏡花 〇泉鏡花の小説「星あかり」泉鏡花は明治六年(一八七三)石川県金沢市に生まれ、北陸英和学校を中退した。明治ニ十三年 十一月、尾崎紅葉の門に入ろうとして上京したが、紅葉を訪冏する勇気がなく、方々を彷徨した。翌ニ十四年に鎌倉に来て、この妙長寺に七・八月のニか月間滞在した。その後、十月に思いきって紅葉を訪ね、人門を許された。以後創作に励み、小説家として認められ、 数々の名作を残した。この妙長寺滞在の経験をもとにして、明治三十一年に小説「みだれ橋」を 発表し、後に「星あかり」と改題した。 星あかりもとより何故といふ理はないので、墓石の倒れたのを引摺寄せて、ニッばかり重ねて臺にした。 其の上に乗って、雨戸の引合せの上の方を、ガタガタ動かして見たが、開きさうにもない。 雨戸の中は、相州西鎌倉亂橋の妙長寺といふ、法華宗の寺の、本堂に隣つた八畳の、横に長い 置床の附いた座敷で、向って左手に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科といふ醫學生が、四六の 借蚊帳を釣って寝て居るのである。(中略)門を出ると右左、ニ畝ばかり慰みに植ゑた青田があって、向う正面の畦中に、琴彈松といふ のがある。一昨日の晩宵のロに、其の松のうらおもてに、ちらちら、灯が見えたのを、海濱の 別荘で花火を焚くのだといひ、否、狐火だともいった。(後略)」 「山門」。 江戸中期の建物。 四脚門 棟柱・海老虹梁式 切妻・瓦葺 丸柱 三斗詰組。 境内右手の「鱗供羪」塔。 「鱗供羪塔」は約140年前に箸木山日府聖人の代に鎌倉・逗子・三崎の漁師たちによって 建てられたといわれていると。 「鱗供羪」は水産物の流通に携わっている方たちが日頃恩恵を受けている魚介類に感謝する行事 とのこと。 「鱗供養塔の由緒」碑。 「鱗供養塔の由緒碑 鱗供養塔の発願主は第三十六世日慈聖人である。 明治十一年に当山第三十七世日府聖人の代に建立され、のち昭和四十九年六月十七日に 鎌倉魚商協同組合主催の鱗供養塔建立百年祭が開催され、爾後十年毎に大祭を行っていた。 当山の鱗供養は、材木座海岸沖の船上から住職か読経し生きた魚達を海に放ち慰霊する放生会(ほうじようえ)を執り行う。鮮魚を扱う者と共に海の生き物へ感謝の念を忘れず、豊漁と海の安全を心から祈願し、懇ろに海の生き物へ慰霊供養の祈りを捧げる。この塔は元々木製の十尺塔婆で当山檀家の草柳勘蔵殿の志で建立され、次代兼吉殿により 建て替えて供養が続けられる。 平成十六年百三十年大祭並びに平成二十六年百四十年大祭の二度三度にわたる志を草柳教治殿が 受け継ぎ永代に渡り供養が続くよう鱗供養の石塔婆を建立される。 人をはじめ動物も草木・大地に至るまで全ての命に感謝と敬いの心で合掌礼拝する法華経の 精神もあわせ海に関係深い当寺に塔を建て供養す。」 「伊豆法難記念塔」 「妙長寺」は、1299年(正安元年)の創建で、もとは材木座海岸に近い沼ヶ浦という ところにあった。しかし、1681年(天和元年)の津波で堂宇が倒潰したので現在地に移った。沼ヶ浦は、伊豆法難の際に日蓮が船出した地であると伝えられている。 もともと、この「相輪塔」は、関東大震災で倒壊した鶴岡八幡宮の旧ニノ鳥居の東柱を利用して 建立されたもので高さ11mもあったが、その後傾斜したため、防災上の理由から石の部分は 今の低い台座に取り換えられたのだと。 「相輪塔」の最上部を見上げた。 境内右に、白い石の舟があった。これは日蓮上人の伝説に基づくものであると。 日蓮が伊豆に流された時、伊東沖の俎岩という岩礁に置いて置かれたのを、舟守弥三郎に 助けられた。日蓮が乗っていた伊豆法難御用船の1/6の大きさで作られているのだと。 鱗供養塔は明治十一年(1878)建立で、鎌倉・逗子・三浦の漁師の寄進であると・ 「日蓮聖人伊豆法難 鎌倉幕府御用舟(六分の一縮尺) 日蓮上人註画讃(鎌倉妙法寺日澄聖人伝記絵巻写本)による 弘長元年(1261)5月12日に鎌倉幕府に捕縛され、現在の材木座海岸(由比ヶ浜沼が浦)から伊豆伊 東へ流されました。お弟子の日朗聖人は船のとも綱につかまり、一緒におともさせてほしいと願 いましたが、幕府の役人に船をこぐ櫂で打たれ右腕を折られてしまいました。弟子信徒大勢が嘆 き悲しむ中、別れを惜しむ声をあとに日蓮聖人は船出されました。この船上にて聖人は寶塔偈(此 経難持)を唱えられ波の大小で独特の寶塔偈沖中節が生まれました。(船はお檀家様寄贈)」 「本堂」に向かって右手前には、四大尊のひとり「浄行菩薩像」が安置されていた。 扁額「浄行菩薩」。 こちらにも「浄行菩薩」。 「浄行菩薩」様に近づいて。 「浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)さまこちらのお堂に安置されているのは浄行菩薩さまです『お地蔵さん』ではありません。浄行さまです。法華経のお経の中に説かれる4人の菩薩・四大菩薩(しだいぼさっ)の中のお一人です。四大菩薩とはお釈迦様に引き続いて、仏にかわって苦しみの多い末法濁悪. (まっぽうじょくあく)の大変な世にあらわれて法華経を弘めて、悩み苦しむ人々を救うことを 命じられた菩薩たち。無数の菩薩の中のリーダーのような存在です。4人お名前は、上行(じようぎょう)菩薩・無辺行(むへんぎょう)菩薩・浄行(じょうぎよう)菩薩・ 安立行(あんりゅうぎょう)菩薩です。こちらは本堂の正面です。上の段に5体金色の仏像が並びますが左から安立行菩薩、浄行菩薩、お釈迦様(中心奥)、上行菩薩、無辺行菩薩です。中心手前の僧侶の像は宗祖の日蓮聖人。 四菩薩には、それぞれ特長があります。浄行さまについて見ますと、「浄行(じょうぎょう)」と いう名前から「浄い行い(きよいおこない)」浄い修行の菩薩です。汚れを洗いきよめて、 心身が澄み(すみ)、美しく清らかになる徳(はたらき)があります。日蓮宗のお寺でまつられ、本山などではよく見かけます。 「浄」はさんずいで水に関係があります。古来より参拝者は浄行さまの体を手でなでたり、または浄行さまに水をかけたり、注いだりし 浄行菩薩像のお体を洗い清めながら、自らの身体の良くないところが少しでも治るように、 たわしのようなもので磨いたりきれいにしながらお祈りしました。 この浄行堂は篤信のお檀家、横浜の村田家の寄贈です。第4 2世の慈輪院日秀上人(村野宣忠上人)代に建立されました。また、第4 3世の代に当家、 村田ヌイ様よりの援助もあわせ、よりお参りしやすくするため、浄行堂の屋根を持ち上げる 工事を致しました。平成25年11月には、檀家総代の翁川鏡一様がさいせん箱の設置作業を無償でして下さいました。 大事な浄行さまですので、今後も皆様のご援助も頂きながら、もっとお参りしやすくするため、 少しずつですが整備させて頂きます。どうぞ、お参りの皆様、またお墓参りの際には心身清浄・心身健全の功徳のある浄行さまを、 心からお祈りして頂ければありがたく存じます。        合掌礼拝 当山住職」 「本堂」前には、妙長寺の縁起が刻まれた石碑が立っていた。 「海潮山妙長寺縁起 当山は元由比ヶ浜沼ケ浦に在り弘長元年五月十二日宗祖日蓮大聖人伊豆に配流せらるるや 沼ケ浦より乗船し給ふ。弟子大国阿闍梨日朗上人纜に縋りて随行を乞ひしに幕吏櫂を揮って 日朗上人の右臂を○く。宗祖船上よりこの経難持の文を唱え給う聖音海浪に遮られて 長短齊しからず所謂沖中節調ここに起る。川奈の漁師船守弥三郎宗祖を俎岩に救い奉り妻と共に 供養の誠を盡し一子を宗祖に投ず中老僧但馬公日実上人是れなり弘長三年二月二十八日宗祖 赦されて海路鎌倉に還り給い沼ケ浦に着船す。宗祖滅後第十八年正安元年日実上人沼ケ浦に 一宇を建立し海潮山妙長寺と名づく。蓋し父母入信の因縁発祥の地に拠りて梵音海潮音の妙法を 長へに伝えんがためなり。然るに天和元年海嘯により堂宇悉く流 失せしが但だ祖師堂のみ難を 免れて明治の中葉まで存し來船堂実成庵と称せり。堂宇流失の年第二十一世常徳院日慶上人 後難を恐れて寺基を乱橋村畠中天目山円成寺の旧址に移す。是れ現在の地なり。 円成寺は美濃阿闍梨天目上人の開創に係る。寛文の頃不受不施義を唱えたるにより廃絶せるか。 創建巳来星霜茲に六百七十年史実の漸く滅びんとするを憂へ本年朗尊六百五十遠忌に際し碑を 建て実を○して後に伝ふと云爾。 昭和四十四年五月十二日  海潮山四十ニ世慈輪院日秀謹誌」 墓地。 正面に「本堂」。 扁額「妙長寺」。 「本堂」前には石製の「摩尼車(まにぐるま)」が。 「内陣」 御本尊は「一尊四士」。 中央が説法印を結んだ「釈迦如来」。四大菩薩は、向かって左手より「安立行菩薩 (あんりゅうぎょうぼさつ)」「浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)」 「上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)」「無辺行菩薩(むへんぎょうぼさつ)」となる。 「一尊四士」 の前立には「日蓮上人」が。 寺務所。 「妙長寺」を後にして南に進むと直ぐ右には石碑が。 歩道を塞ぐように石碑が立っていた。 鎌倉市材木座2丁目8−41。 「亂橋(みだれはし)」碑。 「亂橋又濫橋ト作リ 一石橋ノ名ナリ 橋の南方ニ連理木アリテ名高シ 東(吾妻)鑑ニ 宝治二年(1248)六月ノ条ニ 十八日寅刻 濫橋ノ辺一許町以南 雪降リ其ノ辺霜ノ如シ  ナトアリ  辻町ト材木座トヲ境スル細流ニ架セル逆川橋ト共ニ 鎌倉十橋ノ一ナリ」 【この橋は鎌倉十橋のひとつであります。その名を乱橋または濫橋と書く石橋です。 この橋の南の方に連理(れんり)木があって、有名でした。吾妻鑑(あずまかがみ)によると、 1248年6月の記録に、18日の午前4時頃濫橋の辺に雪が降り、 その辺りは霜のように白く なった、と書いてあります。辻町と材木座との間の細流に架かる逆川橋とともに 十橋のひとつです。】 反対側の石の欄干。 「十橋之一 亂橋」碑。 水路の如き川・「古川」。 さらに南下して次に訪ねたのが「向福寺」。 鎌倉市材木座3丁目15−13 。 寺号標「時宗 向福寺」。 「小町大路」から入っていくと正面に「本堂」が。 緑のアジサイの花、これから白に変身か。 「本堂」。 時宗・向福寺は、『丹下左膳』の作者林不忘(長谷川海太郎)が新婚生活を送ったといわれる寺。開山の一向は、時宗開祖の一遍同様に各地を遊行し、踊念仏によって教えを広めた。1923年(大正12年)の関東大震災によって、文政年間に建てられた本堂と表門が 倒潰してしまった。現在の本堂は1930年(昭和5年)に再建されたもの。本尊の阿弥陀三尊像は南北朝時代の作といわれ、聖観音像は鎌倉観音巡礼第15番札所と なっている。 ご詠歌の額 「ふかき夜の ゆめにすくせし わが身にやさいはひにむく しるべなるらん」 ノウゼンカズラの花であろうか。葉っぱの形からサンパラソル? 「鎌倉みほとけ紀行 向福寺の阿弥陀如来」。 後ほどたずねた「五所神社」の御朱印であろうか。 「一向宗開祖が開山の寺 円龍山 向福寺」。 「袖引地蔵」。 「かまくら 三十三観音巡礼 ⑮向福寺」。 境内の「永代供養塔」。 以前頂いた「鎌倉三十三観音 第十五番 向福寺」の「聖観世音」の御朱印です。                               ・・・​もどる​・・・                   ・・・​つづく​・・・

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