2022/05/19(木)16:19
古都「鎌倉」を巡る(その133) :安国論寺(2/2)~大黒堂
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「熊王殿」横の富士見台登口(巡礼路登口)より急な石段を上り「富士見台」を目指す。
「富士見台」からの「由比ヶ浜」の先の山。
山の斜面に「長谷寺」の大きな屋根が確認できた。
「稲村ヶ崎」を見る。
そして「富士山」も雲の隙間から。
日蓮上人が富士山に向かって法華経を唱えたと言われる場所がここであると。
この日の相模湾は波も静かであった。
「富士見台」にあった「平和の鐘 南面窟」案内板。
案内板に従い「巡礼路」を進んで行った。
この日もこの場所は人の姿もなく。
根っこで出来た階段を上って行く。
そして前方に「平和の鐘」が姿を現した。
廻り込んで。
「梵鐘」。
「立正安国の梵鐘」看板。
「人間国宝 香取正彦先生 鋳造
この鐘は立正安国と世界平和を祈念し、お題目と立正安国の文字は日蓮上人の御真筆を
拝写して造りました。」
そして更に「南面窟」に向かって「巡礼路」を進むが、前方はロープで塞がれていて
これ以上は進めなかった。
「南面窟」の写真をネットから。
安国論寺裏山の中腹にある南面窟は、1260年(文応元年)、日蓮が草庵を焼き討ちされた折、
白猿に導かれて最初に避難した場所とされる(松葉ヶ谷法難)。日蓮は、ここから、お猿畠の「法性寺」(逗子市)に逃れたのだと。
【https://4travel.jp/travelogue/10817584】より
正面から。
【https://ameblo.jp/oedonoharu/entry-12648999052.html】より
窟内の石仏。
一番奥だけ岩盤がむき出しとなっているようだ。
【https://www.goshuinbukuro.com/entry/2017/05/16/232327】より。
止む無く「巡礼路」を戻り、再び富士山の姿を見る。
ズームして。
山頂が見えたのでしばし待つが、雲が無くなることはなかった。
この寺は???
遠く伊豆半島の山々も。
再び稲村ヶ崎をズームで。
船の姿も。
「シーサイドコート逗子望洋邸」も見えた。
「富士見台」前方の松も枝が伐採されて、展望への配慮が行き届いていた。
この街の中を何度と無く歩いて来たのだと。
そして石段を下り「安国論寺」の境内下まで戻る。
句碑「亡き母の 遺徳を偲べ 朴の花」。
「師嚴道尊
そこに道があっても歩かなければ何もならない」と。
青木雨彦(あめひこ)の歌碑とのことであったが・・・・・。
枝垂れ桜の巨木。
毎年、4月には。
【http://blog.livedoor.jp/nori_suke55/archives/57822826.html】より
「本堂」を再び。
もみじ葉も鮮やかに輝いて。
「本堂」の屋根の飾り瓦は牡丹の花(右)。
「本堂」の屋根の飾り瓦は牡丹の花(左)。
「庫裡」。
この石碑は???
そして「山門」を振り返り、「安国論寺」を後にした。
「鎌倉葉山線」に向かって進むと左手に石鳥居が姿を現した。
ここが「大黒堂」。
鎌倉市大町4丁目4−17。
「庚申塔群」。
中央に「北斗尊星」、向かって左に「天鈿女命」、右に「猿田彦大神」と刻みます。
文化五年(1808)の銘がついていた。
右の石碑には中央に青面金剛像、下に三猿がつくが、風化が激しく、年代など不明。
日蓮ゆかりの安国論寺の隣に鎮座する小さな祠で、大黒様が祀られていた。
奥にも「庚申塔群」が。
左に上辺に日月、中央に青面金剛像、下に三猿(一匹)がかろうじて残っていた。
右は中央に「青面金剛」と刻み、向かって右下に「名越講中」、左に「弘化五年」(1848)と
刻まれていた。
「大黒堂」を振り返る。
JR東海道線の「名越踏切」を渡る。
既に訪ねた「名越切通」まで1.0km、「長勝寺」まで100mと。
そして前方に焼却場「名越クリーンセンター」の煙突が見えた。
・・・もどる・・・
・・・つづく・・・