JINさんの陽蜂農遠日記

2024/04/01(月)06:34

「藤沢地名の会」・「春の御所見南を歩く~宮原・獺郷・打戻の史蹟を訪ねて~」(その1):           往路~不動明王坐像道標~

JINさんの農園(2091)

この日は3月22日(金)、会員登録している「藤沢地名の会」の令和5年度第3回「地名探訪」・ 「春の御所見南を歩く~宮原・獺郷・打戻の史蹟を訪ねて~」に参加して来ました。 多くが以前に一人で訪ねた場所でしたが、「藤沢地名の会」の説明員の方が案内してくれるので 復習も兼ねて参加を申し込んだのです。 集合場所は、藤沢市北部の藤沢市用田地区にある、神奈川県道43号藤沢厚木線と中原街道が 交差する「用田交差点」、時間は9:40とのこと。 小田急線長後駅西口から、9:00発の綾瀬車庫行のバスにて向かう。 小田急線長後駅を定刻9:00に出発。 車窓から、長後725号線沿いにあった「藤沢市長後市民センター」を見る。 特徴的な長後市民センター体育室の外観。 長後は柏尾通大山道と八王子へ向かう滝山街道が交差する交通の要衝として、古くから栄えて 来た。その名前は高座の「長の郷」に由来するとも言われているのだ。 今でも市の北西部への玄関口で、かつて私が学生時代にはは小田急線の急行が長後だけに 停車した時期もあった。 果樹の栽培が盛んで、シーズンには新鮮なナシやブドウを求める人たちで賑わうのだ。 バスが走るこの道路はかつての「大山道」で、今でも市の北西部へ向かうバスルート。 「藤沢市長後市民センター」の本館を見る。 そして引地川の手前からは富士山の勇姿が現れた。 そして長後駅から約15分で集合場所近くの「用田辻」バス停で下車し集合場所に向かう。 集合場所の「用田」交差点を渡り、「中原街道」を振り返る。 「用田」交差点を通過する赤い大型バス。 SFCと呼ばれる慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスと小田急線湘南台駅を結ぶ「ツインライナー」。 「ツインライナー」は、「交通バリアフリー法」に対応した、日本初のノンステップ連節バス。 全長 18.175m と、ほぼ電車 1 両分の長さで、定員も 129 名(旅客 128 名+乗務員 1 名)と、 電車の定員とほぼ同じ。 車両はドイツ生まれのヨーロピアンスタイルで、カラーは街並みに明るく華やかな雰囲気を添える ピーチピンクを採用。乗降しやすいノンステップの入り口からは、平面床が約 15m 続くのだ。 昨年・2023年には、湘南台駅近くを走っていた際に、新しい4両編成のバスとすれ違った のであった。2両編成のツインライナーがついに2倍になっていたのであった。 この4両編成の連結バスは、ツインライナーにあわせて「ツインツインライナー」と名付けられた と帰宅してから知ったのであった。 中原街道(なかはらかいどう)・神奈川県道45号線の道路標識。 中原街道は、相模国(神奈川県)平塚と武蔵国豊島郡江戸(東京)とを結ぶ街道。 現在の国道1号桜田通りから東京都道・神奈川県道2号線および神奈川県道45号線に相当し、 高座郡寒川町一之宮の田村の渡し、または、四之宮の渡しで相模川を渡り、平塚市御殿へ 達している。 中原街道は脇街道であったため、東海道のような宿駅は設けられず、荷物等の受け渡しを行う 継立場が下記の通り設けられた(なおこの継立場を中原街道の宿場とする見解もある)。・小杉(神奈川県川崎市中原区)・佐江戸(神奈川県横浜市都筑区)・瀬谷(神奈川県横浜市瀬谷区)・用田(神奈川県藤沢市) 写真はネットから。 そして集合時間になると、この日の参加者18名が全員集合。 平均年齢は70歳を超えていたであろうか。 この日に「藤沢地名の会」からいただいた資料(以下 資料)の一部を転載させていただきました。 この日の散策案内資料の表紙。下部にこの日の散策場所・探訪コースが示されていた。 「御所見の昔・今より」 上:現在の地図 下:当時の御所見の小字 葛原には、桓武天皇第三皇子葛原親王(かつらはらしんのう)の御所があったといわれている。 御所見(ごしょみ)の名は、葛原親王が散歩の際に御所を眺めたという菖蒲沢の塚「御所見塚」に 由来するとのこと。また、平安時代に葛原親王の子孫である垂木主膳正従四位下長田武蔵守平忠望がこの地に住み、 その館は土地の人々に垂木御所(たるきごしょ)と呼ばれていた。 菖蒲沢の塚から、この御所を見ることができたためという説もある。「御所見地区は、明治ニ十ニ年(1889)四月市町村制の施行により、用田・葛原・蒲沢・打戻・ 獺郷・宮原の6ヶ村が合併して御所見村となったのが起源です。昭和三十年(1955)に藤沢市に 合併し、現在は藤沢市13地区区分の1つとなっています。藤沢市の北西部に位置し、北から西に かけて綾瀬市、西は目久尻川を境として海老名市、西南に寒川町、南は小出川を境に茅ヶ崎市と 接しています。地層の基盤は、相模川左岸の洪積層相模原台地(約7万年前)に、地区の中央を南北に高座丘陵 (約13万年前)が割り込んだ形となっています。その上を関東ローム層が覆う30 ~ 40mの台地と なり、一部が相模川支流の目久尻川・小出川や引地川支流の一色川等の沖積層になっています。沖積層の低湿な地域は、以前は氾濫・泥田地帯でしたが、昭和初期からの耕地整理により今では 良田に改良されています。また、台地上は昭和三十五年(1960)以降の工場進出や宅地開発が 進められてきましたが、市街化調整区域として今も山林や畑が多く残され、昔ながらの農村の姿を 各所に見ることができます。当地区は、古代は東海道別路と東山道連絡道が通る交通の要衝で、早くから拓かれた土地とされ、 今も長い歴史の伝承を持つ神社が複数存在しています。これらの古道は、近世になって中原街道・ 大山道として引き継がれ賑わい、用田辻付近は旅籠や茶店が多く集まっていました。一方で、 大方の村人たちの暮らしは養蚕と、粟・米・麦・サツマイモ・スイカ、また戦前まではタバコも 多く栽培され、農耕を中心とした生活に支えられていました。」と資料から。 在りし日・昭和30年頃の「御所見塚」を頂いた資料から。「御所見塚」は、昭和35年に工業用地となり、整地されてしまったのだと。 「御所見塚事蹟之碑」 現在は、 御所見塚の記念碑が、場所を移して御所見市民センターの一角に立っている。 「御所見略年表」。 集合場所の「用田辻」。 南北に中原街道、東西に大山道・厚木道が交差する用田辻は、古くからの交通の要所で、 用田村はこれらの道の継場として栄え、継立の道程は、中原街道は一之宮村へー里半、瀬谷村へ ニ里半、大山道は門沢橋へ三十町、長後村へー里、厚木道は藤沢宿へニ里ニ十七町、厚木村へ ニ里です。用田辻を中心に伊東屋、あずま屋、富士屋、亀屋、伊豆屋などの旅籠がありました。​​​現在、中原街道---は丸子中山茅ヶ崎線、大山道​---​は横浜伊勢原線、厚木道---は藤沢厚木線と 呼ばれ、大山道と厚木道は御所見中学校前で合流し、用田では一本の道となり用田橋の先で再び ニ本の道に分かれます。 ​​「用田辻」にあったのが「不動明王坐像道標」。 丁度、影になってしまっていたので、以前の時の写真を。 こちらは、この日の写真・「不動明王」像。 安永4年(1175) 「右大山道 東柏尾道 北江戸志んみち 南一之宮道」と刻まれていたと。 大山街道「柏尾(かしお)道」は、横浜市戸塚区の柏尾で東海道から分かれて大山に向かい、 伊勢原市の下糟屋で矢倉沢往還ルートの大山街道と合流するもので、東海道から大山に向かう 旅人に利用される道だった。 全体的にはほぼ真っ直ぐ西に向っており、途中でいくつもの川を渡る。 川を越すたびに 丘陵からの下りと上りを繰り返すが、息が切れるほどの急坂はあまりなく、歩き旅に変化を 与えてくれるといった感じ。 また、他の旧街道と比べて道標や庚申塔などの石造物が非常に 多く残されているのが特徴的だ。 明治になって鉄道が開通すると平塚経由の方が便利になったので廃れていったと ネットから。 「不動明王」像の右下に石碑が2基。 左の石碑・道標には 「施主 相州ふたつや村□木□ 相州□谷村久保田  西 座間休息山 上依知星下」と刻まれていたと。 その右には「発起人」の名前が刻まれていた。 2基の石碑の裏面。 そして「中原街道」を南に下り散策開始。 この日の散策ルートを資料から。                    ・・・​つづく​・・・

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