老舗・玉ひで
宝暦10年(1760)先祖山田鐵右衛門、御鷹匠の家に生まれ、27歳の折、将軍家に出仕する傍ら、妻「たま」と共に、「御鷹匠仕事」をもって家業を興し、現在の人形町3丁目に当たる地に屋号を「玉鐵」と称して、軍鶏専門の店を創業いたしました。 御鷹匠仕事とは 将軍家の御前にて鶴を切る厳議に由来する格式の高い包丁さばきでございます。家伝の法は、放血せずに〆た鳥を、血を見せることなく直ちに骨と身に取り分け、肉に手をふれずに薄く切る練達の秘法でございます。 初代鐵右衛門は将軍家御鷹匠の職を奉じていたため、特定の顧客のみに、その独特の包丁を披露いたしておりました。 その後、二代鐵之丞・三代鐵之助と代々御鷹匠として将軍家に仕えながら家業を承けついでまいりました。 三代鐵之助の嘉永5年(1852)に上梓された名物店番付、「江戸五高昇薫」には、「しゃもなべ-四谷御門内万蔵金・ミソヤシンミチ大はし・住吉丁玉てつ・馬道桜や・スキヤカシ中嶋」とあるように、鳥料理五店の中に選ばれ、今も続いている他の業種の老舗ともども収載されております。そのころ、幕閣の御鷹匠廃止の動きに加え、御鷹匠仲間と起こした不始末などもあり、それを機に、三代鐵之助はその職を返上し、倅四代目善次郎と共に軍鶏なべ専門の店としての営業に専念することになりました。 四代善次郎の慶応元年(1865)には、たべもの店番付け「花長者」に、「イツミ丁 玉鉄 あいかも しゃも」(後の町名地番制定により新和泉町7番地=現在人形町3-11-1)とあり、変わらぬ繁盛の体をつたえております。 また、明治8年(1875)には、「東京牛肉・しゃも流行見世」の番付に載る有名店として評判を得ておます。 おりから、蠣殻町に水天宮の遷座・米穀取引所の開設などがあり、これによる米屋町・人形町通りの繁盛にともない、明治16年(1883)現在の営業地、人形町1-17-10(当時蠣殻町2-14)に好適の地を得て、蠣殻町『玉鐵』として支店を営業し、その営業を倅秀吉(当時16歳)に任せることとなりました。 明治25年(1892)千龝庵撰「富世雷名八称人」(各種有名八店の番付)には、「鳥肉八鮮」の中に推されております。このように皆様にごひいきを頂き、新和泉町・蠣殻町二店の営業を続ける中で、明治28年(1895)、蠣殻町店の店舗拡大にともない本支店を統合して、お客様方の贔屓に応えることになりました。 その間に、鳥鍋の残りの割下に卵をとじる召し上がり方にヒントを得た秀吉の妻「山田とく」の創案による我が国最初の「親子丼」がお出前として売り出され、兜町・米屋町・旧魚河岸(日本橋)を中心に時好に投じたものとして喧伝され、しだいに全国に広まってゆきました。以来、親子丼発祥の店としてその名を知られております。明治30(1897)、「秀さん、秀吉つぁん」とお客様や近所界隈に人気のあった秀吉が五代目を継承し、それまでの「玉てつの秀さん」の店という蠣殻町店の通り名が、明治31年(1898)の毎日新聞による料理店の人気投票の番付には、「玉秀」としてご投票いただくまでになりました。現在使っております「玉ひで」の屋号は、お客様に呼び親しまれていた通称で、いわば、お客様につけていただいた屋号でございます。 当時より、各界の著名な方々にたいそうご愛顧を頂き、小山内薫先生の著書、「大川端」(読売新聞・明治31年8月掲載)に 「福井さんは正雄とゆっくり話がしたいときはいつも久松町の八州亭という西洋料理屋か、人形町の玉秀という鳥屋に誘った。役者と一座させることは、正雄に対して礼を失すると思ったのである。」とご紹介いただいております。 また、そのころの様子は、桂文楽師匠の思い出咄し「色ごとも芸のうち」(文芸春秋・昭和43年10月号)にも 「あたしが末広の高座にあがっていると、鶴本の師匠が、「ああ今夜ね、おまえ、ハネたら玉秀で-人形町の有名な鳥屋ですよ、玉秀へきておくれ」「へえ」「俺は先に行ってるからね」って、あたしはもう一軒すませてその鳥屋へいったわけだ。そうすると、師匠がサシで飲んでいるんですね。あたしの女と。それで、いつもとナンか空気が違うんですよ。」 とありますように、鶴本の師匠(4代目志ん生)などにもおいで頂いておりました。 六代目衷二郎に至り、戦時中の強制疎開、また政令などにより、一時営業の中止をやむなく致しておりましたが、皆様の御支援によりまして、昭和24年現在は地下鉄日比谷線人形町駅昇降口となっております所に仮店舗ながら営業を再開致しました。 そのころ、戦後復興した老舗の集まりとして「東都のれん会」が結成され、発足にあたり、再々のお勧めがありましたにもかかわらず、本店舗を構えての真の復興を果たしていない故をもって入会を固辞しておりました。そのため、「東都のれん会」は軍鶏料理の業種をひとまず空席にしたまま始まり、現在にいたっております。ここには、六代目衷二郎と田辺柏葉氏(東都のれん会)ののれんに対する明治生まれの一徹さがうかがわれて興味深いものがあります。 当時の模様は、谷崎潤一郎先生の随筆「ふるさと」(中央公論・昭和33年6月号)に、「向う角の瀬戸物屋だった店が佃煮屋になっている。鳥屋の玉ひでがそこの二階で営業していると聞いていたが、今はその角を西へ曲って、大体昔の位置に近い所に引っ越している……いまもある玉ひでは私の家から東へ1,2軒目の所にあって、おいしいかしわ屋だったので食べに行ったことはないが始終取り寄せて食べた……。」と描かれております。玉ひで http://www.tamahide.co.jp/東海林さだおの満腹大食堂 1995円【内容情報】(「BOOK」データベースより)「あの店に行ってみたい…」とのご要望におこたえいたしました。神田・まつや、東池袋・大勝軒、門前仲町・魚三などなど「丸かじり」でご紹介の名店をどどーんと一挙50店紹介。 【目次】(「BOOK」データベースより)陶然たるウナ重―ウナギ・西荻窪 田川/ハヤシライス再訪―ハヤシライス・根岸 香味屋/行列付き親子丼―親子丼・人形町 玉ひで/そば屋で一杯―そば・神田 神田まつや/初体験「ちゃんこ鍋」―ちゃんこ鍋・両国 巴潟/ビアホール考現学―ビール・銀座 ライオン/夏だ、ドジョウだ―ドジョウ・森下 伊せ喜/魚河岸のナゾの呪文―洋食・築地 豊ちゃん/ナマズの丸かじり―ナマズ・新大久保 なまず家/うどんすきの活気―うどんすき・京橋 美々卯〔ほか〕