遅速なく
一生は夢の如し、という。ついこの前まで20歳だったはずだけれど(笑)ふと気付けば・・この3月には44歳となる。つまりは あっという間に24年間が過ぎ去ってしまったということ。ということは、これから更に24年後・・・68歳になるのもそれほど遠くはない未来なのだと思う。昨日診察してくださった歯医者の先生が仰った。「○○さん、これからの人生もまだまだ長いねんから 歯、大事にしていこうな」と。それに笑顔で答えながら ふと「本当に・・・長いのだろうか」と思ってしまった。願望として、長生きしたいという想いはある。おそらくは人一倍。けれど、その願いが叶えられぬ時自分自身がどれほど打撃を受けるか 重々承知しているだけに・・・現実として、短命で終わってしまう場合もあるのだと、そのことを深く心に刻みながらの「長生きしたい」でありたいと思っている。死を真正面から考えるきっかけとなったのが7歳の時に遭った交通事故。ダンプの下敷きになりながら自分の身体の上に大型車が乗っているのを見ながら「死にたくない」と思った。7年しか生きていない。もう、死ぬのか、と思った。その時の無念は今でも忘れることができない。どんなに痛くても、どんな辛い治療も頑張るから生きていたい、と思った。死んだら自分はどこに行くのだどうなるんだ、という恐怖で身動きできなくなった。死の世界に行くということは本当に独りきりになってしまうということだと思う。自分がどんなことを思っても、訴えてもおそらくは誰にも届かない。怖ろしいほどの虚無・・・・そんな中で私は一体何を思うのだろう。生の姿であるときが「夢」であり死後の自身のありようが まことの「現実」ではないかとさえ思う。 思ふこと遊びに似んか遅速なく われに近づく死といふ現 尾崎左永子自分自身、体がさほど頑健でなくてよかったのかもしれない、と思う。いや、負け惜しみとか強がりではなく(笑)。もしも体力に恵まれていたとすればこころは外に向かい、そして身体も外に向かい美しいもの 興味をひかれるものにこころ奪われていたかもしれない。そういうものにこころ奪われるほどわたしたちの人生は そう長くはないのだと思う。