赤穂事件、忠臣蔵、気になる人物。(保福院深沢宗仁の世界)
忠 臣 蔵 赤 穂 事 件 記録の抜粋 確認必要忠臣蔵、気になる人物梶川頼照墓所 、東京都中野区上高田の乾竜山天徳院 梶川 与惣兵衛 (源氏) 縁者によって勢揃坂 浅野家菩提寺内 墓地建立。 吉良義央 (源氏)吉良と大石の親戚関係吉良と大石の二人は、 近衛家諸大夫進藤家と斎藤家を通じる形で遠縁がある。 吉良から見れば、 妻の母親の実家を継いだ者が大石家の血の流れる者だったということになる。 しかし、 事件前から面識があったかどうかは不明。事件が朝廷に伝わった時、東山天皇の嬉々としていた様子が関白近衛基熙の日記に記されている。幕府の方針を忠実に実行しただけとはいえ、吉良は幕府による朝廷抑制政策の通達役に立つことが多かった。そのため、天皇もまた吉良に含むところがあった事が推測される。そればかりでなく、次代将軍をめぐっての問題がある。近衛基熙の娘・熙子は甲府家に嫁いでいた。将軍綱吉の娘は紀伊家に嫁いでいる。紀伊家の娘は上杉家に嫁いでいる。元禄13年末に亡くなった水戸光圀の妻は近衛基熙の叔母にあたる。刃傷事件の3日後、綱吉は初めて紀伊家の江戸屋敷を訪問している。次期将軍擁立については、綱吉・上杉・吉良と近衛・水戸が対立していた。光圀が亡くなったことで紀伊家が優利になったようだが、それが原因で綱吉政権を倒そうとする動きがあったことから、元禄14年4月から6月にかけて、幕府直属の軍隊による大規模な射撃演習が繰り返し行われた。茶人としての義央は、茶匠千宗旦の晩年の弟子の一人であり、『茶道便蒙抄』を著した茶人山田宗偏などとも親交を持っていた。「卜一」(ぼくいち・上野介の上の字を二分したもの)という茶の号を持ち、卜一流を興していた。http://www.city.nishio.aichi.jp/nishio/HAZU/kira/kanko/pub/miru/kirakou/index.html 『忠臣蔵』では赤穂浪士に討たれる悪役として描かれる吉良上野介義央公ですが、実際に悪人ぶりを示す資料はほとんど残っていません。地元吉良町には、義央公が築いた黄金堤(こがねづつみ)を始め、義央公が寄進した文化財等も多数残り、今でも名君として慕われています。http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/seisan/sei121.htmhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E3.80.8C.E4.B8.8D.E5.BF.A0.E8.87.A3.E3.80.8D.E3.81.AE.E3.81.9D.E3.81.AE.E5.BE.8C元禄赤穂事件以前に起こった江戸城内での刃傷沙汰には次のものがある。加害者は死罪、被害者は死亡と改易の例。?寛永4年(1627年):小姓組猶村孫九郎が、西の丸で木造氏、鈴木氏に切りつけた事件。鈴木は死亡。木造は助かった。加害者猶村は殿中抜刀の罪により切腹改易、被害者鈴木はその時の傷がもとで死亡。木造は逃げたことを咎められ、改易となった。被害者加害者共に死亡の例。?寛永5年(1628年):目付豊島信満が、西の丸表御殿で縁談のもつれから老中井上正就に斬りつけ、正就と制止しようとした青木忠精を殺害し、その場で自害した(豊島事件)。加害者は死罪、被害者は無罪の例。?寛文10年(1670年):殿中の右筆部屋で、右筆の水野伊兵衛と大橋長左右衛門が口論になり、水野伊兵衛が刀を抜いた。水野伊兵衛は殿中抜刀の罪で死罪となった。喧嘩相手の大橋長左右衛門は無罪。殿中抜刀で水野が死罪となり、喧嘩相手の大橋は無罪である。加害者被害者共に死亡の例。?貞享元年(1684年):若年寄稲葉正休が、本丸で大老堀田正俊を殺害し、正休もその場で老中らによって殺害された事件。 「喧嘩両成敗」は、秩序が崩壊した戦国時代に誕生した慣習法であり、かぶき者が好んだ法であった。戦国武将でもある徳川家康や徳川秀忠はこれを幕法として採用したが、事件当時はすでに百年近い時を経た元禄の世である。戦国時代の残滓が残っているとはいえ、「武断政治」から「文治政治」への転換が図られて、「喧嘩両成敗」という理非を問わずに双方を処断するというやり方は、無実の人間を残虐な刑罰に晒す危険性があると当時の儒学者などからの批判もあり、文治政治を志向していた綱吉は特に批判的であった。江戸の世は身分制社会であり、法や捜査は決して近代的でないし平等でもない。「喧嘩両成敗」の概念は要するに捜査の価値もない禄高の低い軽輩者の喧嘩をおさめ、捜査の手間暇を省くために適用されることが多かった。大名身分に喧嘩両成敗の適用は伊達村和の事例ぐらいしかない。ただし、「浅野長矩が吉良義央に斬りかかったのは、相応の理由があった」とするのであれば、吉良に対して一切の咎めが無いのは不公正である、という論は成り立つ。そして、その論をわかりやすく説明する上で「喧嘩両成敗」という言葉を持ち出すのであれば、あながち間違っているとはいえない。また吉良には一切非が無いのであれば、浅野の行動はまさしく乱心であり、赤穂藩に対する幕府の処分は過酷にすぎる、という論も成り立つ。後年の例としては享保10年7月28日(1726年8月25日)に江戸城本丸で発生した事件がある。水野忠恒(松本藩主7万石)が扇子を取りに部屋に戻ったところ、毛利師就(長府藩主5万7,000石)が拾ってくれたが、そのとき毛利は「そこもとの扇子ここにござる」と薄く笑ったため、水野は侮辱されたと思い、毛利を討とうと斬りかかった。しかし、水野は周りにいた者に取り押さえられ、水野も毛利も双方が助かってしまった。このとき将軍徳川吉宗は、水野の行動を乱心によるものであると裁定し、秋元喬房に預かりとして改易に処しながらも切腹はさせず、また親族の水野忠穀に信濃国佐久郡7,000石を与えて水野家を再興させた。そのうえで毛利家は咎めなしとした。その結果、水野家からも毛利家からも不満の声は上がらなかった。同じ事例でも徳川吉宗と徳川綱吉の違いがここにあると言われる。大野知房能成寺 (甲府市)http://www.yamanashi-townjoho.com/nojyoji/http://www.yamanashi-townjoho.com/nojyoji/setsumei02.htm大野九郎兵衛の墓 とは 赤穂義士の討ち入りで有名な播州赤穂藩の淺野家家老。討ち入りには参加しなかったので汚名を着せられているが、実はもし大石等が本懐を遂げられなかった場合の備えとして軍資金を確保し第二陣を率いるべく韜晦していたのではないかとも云われる。墓石の裏面に狂歌として次のような辞世の歌が彫られている。「死する期は白黒とても見えずとも彼の岸にては打たむ渡り手」討ち入りと結びつけると意味深長な歌ではある。 大野九郎兵衛元禄赤穂事件(忠臣蔵)の際、板谷峠(米沢)で吉良義央を待ち伏せしていたといわれる赤穂藩士です。 大野九郎兵衛は、播州赤穂藩の家老職にありました。元禄赤穂事件の際には、大石内蔵助と対立し討ち入りには参加しなかったといわれていますが、実は大石が失敗したときに備え、米沢藩に逃げ込むであろう吉良を待ち伏せするべく、米沢の板谷峠に潜んでいたとの伝説が残されています。その後、討ち入り成功の報を聞いた九郎兵衛は、歓喜し、その場で自害したといわれています