中上健次:『紀州』
紀州改版価格:580円(税込、送料別)■副題は「木の国・根の国物語」(角川文庫)。中上健次が被差別部落出身者として、故郷である紀州を旅するルポルタージュで、差別とは何か、被差別とは何か、そして紀州とは何かを考える。■差別/被差別とは何か、という問題についてはここで書く気もないし、書く時間もないのだが、いくつか関心をもって読んだことについてメモしておきたい。■ひとつは、作家が差別をどう認識し、それをどう描くのか、という問題である。実に鋭いと思わせるのは次のような指摘だ。 島崎藤村の『破戒』という物語が決定的に通俗なのは、 パスしきらず戒めを破らせるところにある。 それは切って血の出る物語を経過した部落民丑松の弱さなのではなく、 作家島崎藤村の、作家精神の脆弱さによる〔…〕『破戒』という書名が示しているように、丑松が戒めを破るところは、その小説のクライマックスであり、ぼく自身高校生のときに読んでどきどきしたのをよく覚えている。しかし、主人公に戒めを破らせるという物語の構造自体が単純化して言えば、ビルドゥングスロマーン的であり、ロマン主義的である。■それとは別に、本書を読んで関心を改めてもったのは、作家の「土地」との関係である。中上健次がフォークナーのヨクナパトーファに影響を受け、紀州サーガを書いたことはよく知られているが、作家にとっての土地(中上の場合、路地)は重要なキーワードであり、われわれ読み手もそこから読み解くことが大切だろう。■その土地という問題は、何も小説に限らず、自分自身のアイデンティティと深く結びついている。その一方で、出身地とは別の土地に旅行したときや今自分がこうして何のゆかりもなかった土地に住んでいて感じる、ある種の違和感というのは、やはりその土地ならではの何かであろう。別にそれは、その土地を否定しているわけではない。ただ、ふとしたときに、つい否応なく、讃岐とは何なのか、という疑問を頭をよぎる。もちろんそれは、信濃、と言い換えてもよい。■さてこの問題は、当然ぼくのなかでは音楽と結びつく。実際中上健次は旅の車中で、なぜかレゲエをかける。まあ音楽のことはこのブログでは省略するが、直接自分の専門とは関係のない本を読むことが、大いに刺激を与えてくれることがある、という典型的な読書だった。