2005/04/27(水)09:08
「日本の民話 1 動物の世界」 【瀬川拓男・松谷みよ子】
(角川書店 1973年5月)
現在は角川文庫版が出ている。
奥付には、
監修=宮元常一・野坂昭如
編集=瀬川拓男・松谷みよ子
再話=松谷みよ子・瀬川拓男・清水真弓
さし絵=丸木位里・丸木俊
とある。
日本の民話のうち、動物が主な登場人物となっているものを集めている。
奥付に「再話」と明記してあるように、最終時の姿そのままではなく、あらたに構築し直したもの。それについては解説で瀬川拓男が説明しており、それぞれの話の後に、
九州地方・昔話
瀬川拓男
というように、原話の採集された地方と、昔話・伝説の区別、再話者名が明記してある。
知っていた話もあるが、知らなかった話の方がずっと多い。
民話というのは奥が深いものだ。
「あてのない旅」(p69)など、途中までは「ブレーメンの音楽隊」そのままで、これは「大工と鬼六」のように、翻訳されたものが伝わったのではないかと思うのだが、巻末の大島広志「参考資料」によれば、日本では長野、岡山、岩手、宮城で類わが採集されているほか、朝鮮にも採集例があり、ソビエトでは十一話報告されているという。
それでも、翻訳によって伝わった話ではないか、という疑念は消えない。
飼い主が、役に立たなくなった家畜は処分してしまおうとする乾いた感性が、日本の民話らしくないと思えるのだ。
動物譚ということで、畑正憲が「私の民話論 民話の中の動物たち」という文章を寄せている。
民話の中の動物たちは、現実の生態とは無縁のことが多いとか、報恩譚が多いとか、自分が実際に出会った狐や狸の話の後、日本には動物が人間に化ける話が多いが、人間が動物になる話がほとんどないと言う。
そして、「鳥のなき声につての物語」は例外だ、と言う。
おお、言われてみればその通りだ。カッコウやヤマバトなどの鳴き声の由来を語る話には、人間が鳥になったという話が少なくない。中国にもあった。
きつねの好物。
キツネの出てくる話も多いが、そのうちに二話で、きつねの好物として「ねずみのてんぷら」(p95)、「焼きねずみ」(p111)が出てくる。前者は東北地方の昔話、後者は鳥取県の伝説。
巌谷小波の「黄金丸」で、好物がねずみの天ぷらというのを読んで初めて知ったことなのだが、「利根川図志」にも「ねずみの油あげ」をえさとして狐を捕まえる話があり、昔から広く言われていたことであるらしい。
印象に残った話。
「山の鯨・海のいのしし」(p10)
鯨はもとは山に済んでいて、「今でも鯨は、ときとして群れをなし、山の見える浜やいそに乗り上げる」のだそうだ。
そうだったのか。それで集団自殺に見えるようなことをするのか。
「きつねの味噌煮釜」(p100)
命を助けられたきつねが恩返しをし、最後には命を失ってしまうという悲劇。
きつねの力で長者になって爺と婆は、「月の十九日」は必ずきつねをまつったお堂にお参りしたというのだが、十九日というのは何か意味があるのだろうか。