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七十年前の今日、昭和二十(1945)年3月13日23時57分から14日3時25分までの約3時間半の間に、大阪市のミナミ地区が、敵B29爆撃機の投下した油脂焼夷弾(ナパーム弾)で、火の海になりました。 難波新川、今開催されている大相撲春場所の府立難波体育館玄関付近にあった実家が空襲で焼かれ、子供の頃の写真や思い出の物は一切残っていません。 遊び友達も、集団疎開した二人だけ、戦後再会しただけです。 アメリカ軍の照準点は、北区扇町・西区阿波座・港区市岡元町・浪速区塩草に設定されていました。 グアム島から43機が午後11時57分から14日午前1時にかけて大阪上空に達し、約2000メートルの低空から、木造の日本家屋を炎上させるために開発された大型焼夷弾を、まず港区市岡の照準点に投下し、大火災を発生させました。 テニアン島から来襲した107機が、14日午前0時10分から3時25分にかけて、浪速区塩草を照準点として投弾しました。 家内は塩草に住んでいて、関西線で逃げましたが、義姉は南海高島屋(現高島屋大阪店)がシャツターを開けた瞬間に市営地下鉄難波駅に逃げ、佐藤栄作(後の首相)市交通局長か、陸軍憲兵隊か、今では、はっきりしませんが、真夜中に、地下鉄を走らせました。 地上の御堂筋は大火災の最中でしたが、梅田と天王寺間の地下鉄一号線(今の御堂筋線)を走らせたお陰で、たくさんの市民が助かりました。 さらに、サイパン島から来襲した124機が、14日0時20分から2時25分にかけて、照準点を北区扇町と西区阿波座に爆撃しましたが、大火災で、目標が定まらず、爆撃出来なかったようです。 被災地域は、浪速区の98%、南区(今の中央区)、港区、大正区、東区(今の中央区)、西成区、天王寺区 被災戸数 136,107戸、被災者数 501,578人、死者は数千人です。 一口メモ 少年法61条は、戦後の昭和二十三(1948)年に、戦争で親を失った戦災孤児が、駅で寝泊りし、飢えから食べ物を引ったくりするケースが多く、孤児院にいれ厚生させるために作られた法律です。 敗戦直後のドサクサに犯した罪と、今の平和な時に犯罪を犯す極悪人とは全然違います。法律が70年も変えないのは政治家の怠慢です。 少年でも、殺人者は名前も写真も、欧米のように出すべきです。 70年前の三月 13日 敵B29爆撃機第一次大空襲 14日 タバコの配給一日7本から 3本にと大蔵省 15日 大本営、満州の関東軍内地へと発表 16日 戦災見舞いの塩鮭300トン、東京築地市場へ 17日 硫黄島守備隊玉砕 18日 決戦教育措置、四月から授業停止 19日 敵B29爆撃機290機名古屋市街を無差別爆撃 20日 鉄道省 東京ー下関間以外の急行列車を廃止
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Last updated
2015.03.13 20:53:33
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