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カテゴリ:ショートストーリー
初雪が降った日だった。
聡子は小学3年生になった息子の学期末の個人面談会に行った。 幸い、何の問題もないと担任の先生から言われてホッとした帰り道だった。 結婚前に、何度か義理でデートしたことのある勇一が前方から歩いてきた。 勇一の隣を歩いているのは、おそらく彼の妻だろう。 勇一は、聡子の顔を見ると、ぱあーっと明るくなって、 「やあ、久しぶり」 と声をかけてきた。 勇一のやけに明るい声に、聡子は全身に戦慄が走った。 こんなに明るい人だったかしら…どちらかというと大人しく無口なタイプだったから、妻といっしょと言うことも手伝って、てっきり見て見ぬふりをして、お互いにすれ違うことになると聡子は思っていた。 あげくのはてに勇一は、聡子を近くの喫茶店に誘った。 聡子は勇一と彼の妻の向かいに座った。 勇一はひとりでベラベラ話した。 聡子との馴れ初めや聡子とデートした時のことを事細かに話して、とても自慢げだった。 いまさら昔の楽しくもなかったデートの話など聞きたくもない聡子は、一刻も早く逃げ出したい気分で、そのタイミングを謀っていた。 そんな聡子に、勇一は難しい質問をしてきた、 「もし、あの時、僕がプロポーズしてたら、結婚を考えてくれましたよねえ」 この自信たっぷりの語り口に聡子は圧倒された。 そんなわけないでしょ、もうその時は今の夫に気持ちがグーッと傾いてたのよ, と本当のことも言いにくい。 かと言って、オーケーしたと嘘も言えない。 まして、勇一の妻が目の前にいるのだ。 しばらく考えて、聡子は、 「まあ、考えたかもしれないわねえ」 と差し障りのない言葉で濁した。 すると、勇一は、勝手に良いように取ったのだろう。 「ホラ、俺には、こんな美人な女性もいたんだぞ…」 と妻にツラツラと自慢するのだった。 「じゃあ、子供が帰ってきますので」 と何とか抜け出した聡子だった。 自分のことを美人と言ってくれたのは嬉して照れくさいやら、我慢して聞いている勇一の妻に申し訳ないやら、いろいろで顔から火が出る思いで逃げ出した。 しばらく行くと、後ろから勇一の妻が追いかけて来た。 「ごめんなさい。ご迷惑だったでしょう。主人、会社でいろいろあって躁鬱病になっ てしまって、大学病院の精神科に通ってるの。今日は、とっても気分がいいようなの。 それで、たぶん、思ってること全部話したと思うの。気にしないでね。ほんと、ごめ んなさい」 このことだけ話して、勇一の妻は勇一のもとに走って行った。 事情が分かってしまうと聡子は、勇一と出会ったことは、これで良かったと思えてきた。 むしろ、美人と呼ばれた喜びだけがジーンと残った。 その夜、帰って来た夫に、躁鬱病の件は除いて勇一と出会ったことを話した。 「ねえ、あなた、その人ねえ。私のこと、美人って言ったのよ。聞いてる。美人って 言ったのよ」 聡子が何度も美人を強調しても、夫はフーンと頷いて夕刊を見ているだけだった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.08.16 10:44:57
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