神の存在と神の裁断について
力勝負になった場合相手から処刑又は、処刑の下に暗殺される筋の残る人は、相手にも処刑の筋を指摘又は裁断の要望を行っても道理に即しています。神の裁断の前には有利になっていると考えて差し差し支えありません。(泥仕合になってはいない)泥仕合は神の裁断の前では共倒れになります。多分この世的な力で相手を殺せば、殺した方も非業の死を遂げると思いますが、客観的には殺した方が勝ったと観えるでしょう。全く処刑の対象にされていない人は、裁断者に特定人の処刑を要望することはできません。期待は感情であることを知る必要があります。咎めることはできません。但し、正当な裁断を要望することはできます。ここで云う裁断者とは、神に象徴とされる高級心霊も含みます。バチカンに宗教裁判精度が現在も存在するなら誰が裁断するのか?日本は宗教裁判制度はありませんが、西欧諸国に審議及び裁断を依頼すれば、宗教裁判に廻されることもあり得ます。パキスタンに依頼すればコブラが判定するのかも知れません。尚、「神の存在の意味」がよく解らない人は、裁判官がいると考えてもらえば解るようになります。裁判官は自分の想う通りには判断してもらえません。都合を要望することもできません。見解が一致しないこともあり得ます。従って信じてはいけません。お任せするでなくてはいけません。しかし、全宅してはいけません。「ヤルべきことをヤッテ」お任せしなくてはいけません。存在を信じると云うことは存在しないか?どうか?の問題に置き換えて考えれば解ります。存在は信じるのではなく感知するものです。あえて信じたいと云うなら神の審判を信じることになります。神とはどのような存在か?は自分の先入観(個人によって違う⇔宗教を説く人の間でも違う)ですので差し挟んではいけないのです。先入観が入れば間違いが起きます。参考として己に対する神の評価を知りたかったら当ページに記す事件に関して困惑を抱く(感じるなら未だよい)人は神の評価が低人だと思います。私も困りはしますが打開の道は次々に開けて行くように感じます。誰か「ヤルべきこと」を行ったら反作用が起きたと云うことですか?ヤラない方がよかったということですか?(途中で止めたからいけなかったのではないか?)楔を打ち込む要領の形の上だけの真似はいけません。