意識にのぼる言葉
私は特に強く信奉する人はいないが、やはり完全なる覚者の言葉というのは心に響き、深く、また様々な意味を与えてくれるものだと日々感じている。そんな方々の言葉でも意識の中に残っているもの、また日ごろ意識にのぼる言葉というのは、私にとってとても意味のあるものなのだろう。最近よく意識にのぼるのは、「日々の生活が瞑想」という言葉である。瞑想-この言葉のとらえ方は人それぞれ違うと思うが、一般的には目を閉じて心静かに自分の奥深く入ることという感じだろうか…これは、前述の瞑想の定義に少々逸脱するものがある。つまり、瞑想の状態というのは、ただ目を閉じて座るだけというものではない、というのがこの言葉の一つの意味だろう。つまり、何も瞑想した時だけが高次の自分とつながったり、また心静かに自分でいられるというのではなく、その可能性は日々のこの瞬間に見出すことができるわけだ。目の前の人、テレビに出演している人がチャネリングしたようにメッセージをくれていることだってある。違う次元が介入したと感じる「驚きの体験」さえ、意識が「驚きの体験」ととらえていないだけの話で、日常の生活で頻繁に起きている。この日々の生活の全てにそれらがあることを意識することはとても大切であると思う。何も特別な瞬間や瞑想の時だけに「その特別な私」に触れられるというわけではないのだ。この瞬間に目にするもの、聞こえてくる音、出会う人々にも「その特別な私」とのつながりを発見することができる。それは「これに何の意味が…」と一つ一つ頭で考えて理解するのは到底追いつかないスピードで起きている。もう一つ…これはずっと前からずっと心の中にある言葉「本当は何もしなくていい」だ。これは本当に深い言葉である。これも人それぞれ、また進化の過程で解釈が様々だろう。その意味は文字通り、本当はわたしたちは何もしなくていい、なのだが、これを理解するには少々説明が必要な部分があろう。私はこうとらえている。基本的には、覚醒すれば何もしなくていいことがわかるし、実際に想念だけで事が望み通り運んでいく。またそれが自分で創り出している意識がきちんとある。通常、その過程に至るまで、何もしなくていいことを忘れ、人は何かをしようと努力し、様々な体験をする。でも一方、そんな自分を責めたり、後悔することなく、ただ本当に受け容れることができたら、そこに「何もしなくていい状態」があるだろう。ただ、私たちは既に何もしなくてもそこに私たちが望む(潜在的にも)世界を創り出しているわけだから、別に何もしているわけではない。本当は、今生きている世界を創り出すために、また今している体験をするために「思っているだけ」で「何もしてはいない」のだ。思いにより創り出した舞台で、ただあっちへ行ったりこっちへ行ったりしているだけで、そこで出会う人々もまた事象も全ては既に思い通りだということだ。また、ある視点から見た時に既に起こることが決まっているとするならば、「オールを手放せば目的地に着く」がごとく、オールをこがなくてもいい=何もしなくていい という捉え方もあるだろう。これらの言葉を意識した時には、きっとその人その人がその時に一番必要な捉え方ができるように、メッセージや理解が訪れることだろう。