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2020/04/26
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 遺伝子コードにはスイッチとして機能するパートがあり、オンとオフとを切り替えてやるだけのことで、有害な毒性を無害化することを可能にする。中立という条件設定にしても、毒性は失われて無害化する。有害なのは毒性を担持する、というDNAコードになっている場合であろう。この設定操作を人為的に行うことで、ウィルスを弱毒性にしたり強毒性にしたり、することが容易にできるようになる筈だ。免疫がなくてもこの方法なら、遺伝子治療の要領で対応は可能であろう。暗号を外から都合よい方へと書き換えてしまえば、高速の複写能力があったとしても、その能力を失わせて無意味化することができそうだ。

 

 ワクチンを作るには弱毒化する必要があり、そのために多くの時間をかけることが必要になる。一方抗体を作りださせるという方法はもっと簡単で、感染させて陽性化させるだけのことで、抗体を自動的に生み出すシステムが勝手に動き出す。生体を安定に保つホメオスターシスという機能が、生まれつき生体に備わっているからだ。この仕組みを利用することで、抗体が機敏に作り出せるようになっている。免疫系が果たしているのは、このメカニズムを生みだす機動力の優れた高さ。異物を排除する目的で直ちに攻撃を加える、というのが免疫に備わっている監視と攻撃のための仕組み。この特別な機構が生体システムに関与していなかったなら、人類は生き残ることができなくなっていた。

 

 薬は症状を緩和させて肉体の負担を減らし、抵抗力を維持することはできるのだが、それは治癒であることを意味していない。生体防御機能を急遽再編成して、侵略を行った異物である細菌やウィルスを攻撃し、臨戦態勢を最適化するための措置を支援する補助的手段に過ぎない。ヒトを病から恢復させているのはヒトに備わる自己治癒力であり、薬はそれを側面から援護しているだけのこと。戦うためのエネルギーを温存しておかなければならなくなると、患者は吐き気に襲われて食物を吐瀉する。栄養を取った方が良いと周囲が考えていても、それは安易で思慮のない勝手な解釈。消化に費やすエネルギーを惜しむからこそ、摂取した栄養を吐きだして楽になろうとする。嘔吐には、それなりの意味がある。犬や猫などの動物は病気になると、ひたすらおとなしく静かに横たわったままとなる。細菌と戦うための体力を、消化で失いたくないからなのだ。恢復期になってから栄養をとればよいことなので、臨戦態勢を強いられている時に、飲食を強制するのは敵を援ける行為に他ならない。吐き気は戦闘状態の初期によくみられるものだが、この時に栄養を無理に取らせたとき、嘔吐することがよく起きる。

 

中途半端な知識というものは、この上なく有害である。有毒なものを避けない子供時代には、抗体ができる機会は自然に増える。子供の頃に病弱だった子は、長じると丈夫で健康な体に育つ。様々な感染症に小さな頃から晒されていると、多くの抗体がその時代に作られて丈夫になるようだ。これこそが免疫のなせる業。その持って生まれた機能を発揮させないようにしているのが、最近よく見られるようになった衛生観念の強い親。不必要な大人の関与は抗体をこどもに与える上で、とても有害な結果を残す。過保護な親は、感染する機会を先回りして除去してしまう。消毒を先回りしてすることが親の義務だと心得る。その結果こどもたちは抗体を作ることができなくなり、却って早死にしてしまう。昭和から前の時代には、O157で命を落とした子供はいなかった。衛生観念が高まり強迫神経症気味になった親が、子供の健康を善と信じて自らの手で奪い去る。知識の誤用はこのように有害な結果を、遅れて世に残すものとなる。

 

潔癖症が増えたその一因は、教育が高度化したことによって生じた、知識のゴミが健全な理解を妨げたことによる。健全な発達機会を遠ざけて障害を加速する因子となって後で作用する。この意味で学力重視の高等教育が行った知識の量的拡大が、さまざまな禍の素となって追いかけて立ち現れる。だがそのとき因果関係を思い出せるひとは既になく、従ってフィードバックはまったくかからない。できている筈の健全な判断さえ、教育システムの高度化はこのようにして奪い去ってきた。感染したくない人だけが外出を自粛すればよく、抗体保有者になりたいのなら外出機会を増やせばよい。接触感染を防ぐための方法は決まっている。それ以上のものはない。蟄居を選べばリスクは減るが、リスクを取らなければ抗体の獲得は不可。これは意思決定の問題なのだ。選択は自由で犠牲者は或る程度増える。だが致死率は一定で推移するため、影響は大きくならない。

 

過保護な手当てを重ねて大切に育てられてきた子供たちは、おしなべて感染症に対して弱くて脆い。親の過保護がこどもの健康を、善と信じて却って奪い去っている、という事実にさえ未だに気づかない。よかれと思ってしたことが、こどもの命を縮めてしまっている事実に気付かず、過保護を善と心得てその状態を機会ある毎に何度でも繰り返す。戦後はじまった教育の高度化という変更は、知識の量的拡大へと特化した。知識の意味を掘り下げる暇があったら、あらたな知識を増やす方がよい、という思い込みが現代にいま祟るようになっている。そのために日本では対人口比でコンマ以下の致死率を減らそうとして、一斉に行動自粛へと奔り却って経済を追い詰めた。教育を高度化したことが齎した負の利益が、指導体制の劣化へとこうして今繋がった。やってきた行為の意味が、今ようやく明瞭に分かるときが、漸くここにやってきた。

 

自粛に励むその行動は、感染機会を奪って抗体の保有率をただ単に引き下げる。将来訪れる第二波第三波のパンデミックの再来を、自粛というこの先送り措置が、犠牲者となる者の数を無意味に増やす。避け難くして失われる1乃至2%程度の命を守ろうとして、経済全体を失速させておきながら、生活の糧を奪われて何故か安堵する、そんな己の姿をどう見ているのだろうか。生命は貴重で何物にも代えがたいものだが、経済の失速は残された98%以上のイノチまで淘汰する。集団免疫の意味がわかっているのなら、合理的な解はひとつだけしかない。そこにあるのは運と不運の二つだけ。エネルギーは不滅だが、熱エネルギーはエントロピー増大の法則に従って劣化する。生命エネルギーは不滅である以上、劣化することはなく輪廻転生を際限なく繰り返す。一期の生を惜しむ理由はどこにもない。祇園精舎の鐘の音は、死者の誕生を意味する。死は生命の再生産、それは悲しむべきことではなく、魂の復活再生という寧ろ喜ぶべきこと。物質世界の三次元の此岸から十次元のエネルギーでつくられた彼岸へとシフトする、単にそれだけのこと。メメント モリ。その解釈は自由だ。腑に落ちれば納得がいく。






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最終更新日  2020/04/26 05:10:06 PM
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