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令和4年の平左衛門日記

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伊香保「山子田」安藤家と本多藤四郎正盛と安藤右京之進?

2021年11月21日
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ネットで検索したら、いわき総合図書館で調べていただきました。ありがとうございます。
いわきは伊香保からは遠いですが行きたいですね?
【お問合せ内容】安藤家の、磐城の前の高崎時代の資料について【回答】『安藤候史料集 巻1~5』を所蔵しています。『安藤侯史料集 巻1』平市教育委員会 こちらに 安藤重信、安藤重長、安藤重博についての記述があります。いわき市立図書館に、高崎時代の資料はこのほかに7点所蔵があります。①『いわき市史 第2巻 近世』p322~323に安藤重信、安藤重長、安藤重博の高崎時代の記述があります。②『磐城平藩政史』鈴木光四郎著 p260~262に『安藤氏の系譜と家臣』の記述があり、p273に『安藤氏の所領の推移』表があります。③『三百藩藩主人名事典1』藩主人名事典編纂委員会編p339~340に安藤重信、安藤重長、安藤重博の高崎時代の記述があります。④『磐城平藩と安藤家展』磐城平藩主安藤家入部ニ五○年記念事業実行委員会  平成18年8月に、 いわき市文化センターで開催された企画展示の資料です。⑤『香る大名文化』旧高崎藩主・安藤家の至宝  高崎市タワー美術館で2009年4月に開催された企画展の図録です。⑥『高崎藩分限帳集成(上)』 ⑦『高崎藩分限帳集成(下)』 以上となります。






最終更新日  2021年11月21日 11時11分45秒
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2021年11月11日


今日、安藤家の菩提寺に行き、ご住職に「出家する前の名前を調べられますか?」とお聞きしましたら
「江戸時代は膨大な資料なので無理のようです?」とのことで残念です。
当家とお寺は関係が深いと聞いていましたので、歴代住職を調べればわかると、軽い考えでしたので
考えが甘かったです。
でも、お話をしましたので、江戸時代を調査した時でも思いだしていただければと少し希望をいだいています。
帰ってきてご先祖様に報告しました。






最終更新日  2021年11月11日 18時11分36秒
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2021年08月27日

先日、テレビで開運パワースポットの日光が紹介されていました。
日光山輪王寺大猷院の
龍神破魔矢(りゅうじんはまや)を郵送で注文してみました。
破魔矢発祥の【烏摩勒伽(うまろきゃ)】様が持つ矢をかたどった物。

昇り龍が彫刻してあり、御一生まつれる破魔矢です。
悪いものを祓(はら)い、願い事を叶える力があると言われております。

 







最終更新日  2021年08月27日 14時28分38秒
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2021年06月10日






安藤家の墓所にある「祠」風の墓。
中に石仏が安置されています。「天台宗の寺院で仏は阿弥陀如来か?」






最終更新日  2021年06月10日 08時00分10秒
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2021年04月17日


館内には筑波山の写真が1つもないので写真屋さんに注文しました。
伊香保の見晴らし台の展望台から遠く筑波山らしき山がみえます?
ちなみに明野屋の名前の由来は、私の祖父が茨城県の筑西市「明野町赤濱」の生まれです。
小さい頃は、よく小貝川で遊んでいたそうです.
「大正時代に」こんな遠く離れた群馬までよく来たものだと思います?







最終更新日  2021年04月17日 08時05分53秒
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2021年03月30日


玄関前のモクレンがさきだしました。
ちなみに、高崎公園には「ハクモクレン」の大木があります。3月から4月にかけて、幹に白い花ばかりが咲き乱れます。元和5年(1619年)高崎城主となった安藤重信が、今は高崎公園となっている場所に良善寺という寺を建立し、境内に植えたものと伝えられています。だとすれば、400年近い樹齢を重ねていることになります。






最終更新日  2021年03月30日 18時06分38秒
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2020年12月27日


ブログを見た紀伊田辺藩ゆかりの安藤さんからお聞きした、高野山の墓地です。
行きたいですが遠いですね?






最終更新日  2020年12月27日 14時31分24秒
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2020年03月11日


 内藤正成(四郎左衛門)は、「徳川家康一六神将」の一人としても知られる弓槍の達人であった。大永六年(一五二六)に三河で生まれ、一六歳のときには、早くも弓槍の名手として名を馳せていた。その後家康と共に、姉川の戦(一五七〇年)や長久手の戦(一五八四年)に出陣し、数々の戦功を残した。
 天正一八年(一五九〇)の小田原征伐のときには、六四歳の高齢にもかかわらず、その戦功により秀吉から対面の旨を伝えられたが、老年により自らこれを辞したという。そして同年八月一日家康と共に関東に入国し、それまで所領としていた三河国幡豆郡(現愛知県幡豆郡)七〇〇石の地を改め、新たに武蔵国埼玉郡に五〇〇石の采地を拝領した。実に四三〇〇石の大加増であり、正成の貢献度が窺える。






最終更新日  2020年03月11日 16時32分33秒
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2019年03月19日


「内藤正成の活躍」を購入しました。久喜市教育委員会より
少し勉強します?






最終更新日  2019年03月19日 13時36分46秒
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2019年03月11日


元和3年(1617年)

東照社(東照宮)造営副奉行を務めた本多正盛は同僚との意見の対立がもとで

諍いとなり相手を刀の鞘で打ちすえてしまったそうです。この件が原因で相手の

山城宮内は自害、その責任をとって正盛も妻の妹の嫁ぎ先である板橋城の城下

で自刃、遺骸は例幣使街道(国道121号)に面した板橋の福生寺に葬られました。

元和3年4月22日41歳でした。直前の4月4日には東照社が完成、16日には

将軍秀忠が日光へ到着して17日に東照社の祭礼が行われるという大事な時に

不祥事を起こした責任を取らされたわけです。諍いの真相は分かりませんが

恐らく東照社造営工事に関する意見の食い違いがあったのでしょう。

(東照社が東照宮となるのは宮号が宣下された正保2年(1645)11月以降)



家康側近の剛弓の名手の内藤正成
織田信長が、諸国の知名の士の氏名を書き集めさせたとき、武功で知られたものには、その氏名の上にみずから黒点を加えた。正成もその一人で、そのため「点のかかった覚えの人」と称せられた。 (徳川十六神将と讃えられた武将の一人で
武田軍にも恐れられた武勇の人)

正盛は正成のの三男として生まれ、本多忠信の養子となり


下総小見川藩や高崎藩主であった安藤重信の娘と結婚、正盛の子三人は後に

安藤家の養子となり長男重長は家督を継いで高崎藩主となっています。

天海僧正と関係が深い右京之進重長は寺社奉行を勤めておりました。

(天海大僧正は全国の七福神めぐりや江戸の町づくり*日光東照宮造営など~~

江戸幕府初期に活躍しました。)

ちなみに正盛公は若い時「神君伊賀越え」に随行したとか〈7歳ぐらい)?
東海の大大名の徳川家康ですから少なくても100人前後が随行したとか?
神君の命を何回も弓で救った内藤正成の息子ですから随行も考えられるかもしれませんね!

ちなみに伊香保「山子田」安藤家ですが、ご先祖が高崎領山子田村の柳澤寺にて江戸時代初期に
事件に関与して出家した僧だそうです?「寛永年間の駿河大納言か?荒木又右エ門の仇討ちか?~~はわかりません。」






最終更新日  2019年03月12日 07時35分54秒
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