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カテゴリ:日中友好と中国人とのお付き合い
我的丹東同郷H.XとG.Xの結婚式に参列 (大連~丹東~寛甸&本渓恒仁~大連) 2012.8.10~15. 5日目(8月14日) 今日の午前中は朝から須田さんを案内して丹東観光をした。 先ず錦江山公園に行った。旧安東神社の鳥居を中国風に改造したきらびやかな門をくぐって振り返ると丹東の街が鴨緑江まで見通せる高台がある。昔は桜の名所だったそうだが・・・。 元の神殿の跡に作られているモニュメントの広場では中国人の老若男女がいろんなダンスを踊っていた。中国人は鍛錬と称してよく踊りをする。 次は先日行きそびれていた断橋に行った。断橋の端は朝鮮戦争時米空軍機によって爆破された跡を綺麗に塗装して観光スポットにしている所は如何にの中国らしい。 この辺りが中鮮国境となっているが両国間が平穏な時は国境線を越えて対岸の北鮮の直ぐ傍まで遊覧船は近ずく。今日は遊覧船に乗る時間は無かったが私は私は無論以前乗った事がある。 錦江山公園の門から丹東市遠望 鴨緑江断橋上の中鮮国境に立つ私 そうこうする間にお昼になりバス站近くのマックで軽い昼食を食べたが中国としては少し高めの値段だが若いカップルや家族で一杯だった。 時間が来て大連行きのバスに乗ったところ何と11日大連から一緒だった潘園の朋友の劉辰が乗っていたので驚いた。帰省が終わって大連に帰るところだと云っていた。 道中例によってバスに揺られてうとうとしていたがふと携帯をチェックしたら岡山の甥からの電話が入っていた。一寸気になったので返信しようとしたが上手く掛らないので須田さんにやって貰っらかけ方が間違っていたらしくつながった。 お供え物を玄関脇に置いて帰ったので其の通知だと云うことだった。私が中国へ来ている事は知っている筈だが忘れていたらしい。人騒がせなことである。 さて夕方大連に着いたところ珍しく雨だった。迎えに来ていた筈の新霞が見えない。携帯に電話したら雨が降り出したのでデパートに傘を買いに行っていたと云う事で間もな く現れた。 彼女は病気の父親を連れていた。大連の市級市の普蘭店から病院で診てもらうために一緒に来たと云っていた。(中国の市は日本の県に当たり市の中に市や県がある) 私達は劉辰と別れて先ず新霞の双子の娘に会いに嫁ぎ先の嬌先生の宅へタクシーで向かった。雨中に混雑した駅前で取り合いでタクシーを拾うことは外国人には難事である。 嬌先生とは9年ぶりだったが例によって熱烈歓迎され私は「你记得我吗?」と聞いてみたら「我记住」 と答えて呉れたから私の中国語が通じたのだろう。 二人の幼子は全く人見知りせず恒仁の公園の夜店で買った玩具が気に入ったらしく2人とも離さない。新霞に云われて私が口琴を吹くとショールを持って踊ったのが可愛い。 この子たちは小学校は岡山で入学させる積りの父親が苦心して中日両国でおかしくない名前を付けたと云っていた。 どちらか如何かは何度聞いても判らないが兎に角「香月」と「香芳」である。香月=カツキとシャンユエ、香芳=カホウとシャンファンである。 嬌先生には恒仁の地酒をお土産に持って行ったが酒精度が何時も呑んでいる酒と同じだと云って喜んで呉れた。 太太と丁度来ていた太太の妹を残して我々は夕食に出かけたが何と10日の夕食と同じ所だった。2人の幼子はぐずりもせず皆にバイバイをしていた。 今回の旅行では種類は違うが驚く事が多かった。この店の老板(経営者)はどうやら満族らしく御客を出迎える服務員は満族の民族衣装を着ていた。 私がカメラを向けるとにこやかに笑ってポーズを取って呉れた。 新霞の双子の娘 大連有名店「大清花」満族衣装の服務員 愉しい夕餐が終わり外に出たら雨が強くなっていてタクシーを拾えず止むを得ず嬌先生が白タクを捕まえて乗せて呉れた。 心配してホテルまで同乗して呉れると云うのを須田さんが大丈夫私は中国語がしゃべれるからと云ってお断りした。値段は正規のタクシーの2倍以下だったのでまあまあか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012/08/24 10:20:29 AM
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