照千一隅(保守の精神)

2022/04/13(水)21:07

「政教分離」について(16) 伊藤正己の解説その1

憲法(216)

《日本では、徳川時代のキリスト教弾圧のような例はあるが、一般にその民族性や仏教の特質(ともに他の宗教への寛容)などにより、欧米のように深刻な宗教闘争の歴史がなく、いずれかといえば宗教への関心が希薄である。このことがわが国における信教の自由の特殊な展開をもたらしたともいえる》(伊藤正己(いとう・まさみ)『憲法 新版』弘文堂、p. 262) どうしてこのように欧米中心の物言いをしなければならないのだろうか。日本の事情について述べているのだから、軸足を日本において話すべきではないのか。日本には日本独自の文化があるのであって、日本を特殊扱いする必要はない。欧米における宗教の歴史が普遍的なものであって、日本だけが普遍性を欠くというのなら仕方がないが、そうではない。欧米の宗教事情はキリスト教という一宗教における特殊事情なのであって、決して普遍性をもつものではない。仏教圏には仏教圏の、イスラム教圏にはイスラム教圏の個別の事情が存在する。勿論、日本にも日本の事情がある。だとすれば、どうして<深刻な宗教闘争の歴史>がなく、<宗教への関心>が希薄である日本において、<政教分離>のような規定が必要なのか。《明治憲法は「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限二於テ信教ノ自由ヲ有ス」と定めて信教の自由を保障した。これによって、それぞれの宗教を選択し、宗教活動を行うことは自由であり、しかも他の自由権と異なって「法律の留保」がなく法律をもってこれを侵すことが許されなかった。しかしその反面、安寧秩序を妨げず、臣民の義務に反しない限りという制約がついており、この制約に該当するときは、法律によらずに命令をもってしても制限できた》(同) 問題は、この後である。《神権天皇制の結果として、天皇の祖先を神として崇敬する宗教である神社を信仰することは、臣民の義務とされたから、この神社が国教的な地位をもつことと両立する限りでの信教の自由であり、これはその自由の本質に反することでもあった。この点は「神社は宗教にあらず」という無理な論理で矛盾しないとされていたが、一般にはそれに対する批判は活発でなく、やがて明治憲法の末期には、神社信仰は、軍国主義、国家主義の精神的支柱としての機能を果たすこととなった》(同) <神権天皇制>とは何か。伊藤氏は、最高裁判事までも務めた高名な法学者である。が、このような特殊なイデオロギーに染まり、歪んだ法律論を述べる様は、もはや「法匪(ほうひ)」と呼ぶべきではないのだろうか。天皇制: 昭和初期の国家論争の中でマルクス主義用語として登場し,社会科学用語として定着した日本独特の君主制を指す用語(平凡社 世界大百科事典 第2版) 「天皇制」という用語は、左翼用語とは意識されずに、広く使用されてしまっているが、さすがに<神権天皇制>という用語を目にすることはまずない。先の宮沢俊義氏と同様、天皇の存在を良く思わない人達の文章にしか見られないだろう。

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