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今年もやって来ました、終戦の日。
八月の暑いこの日に、三百万人とも言われる日本人が死んだ戦争が終わったのです。 戦争反対を先頭で叫んでいた戦争体験の母親たちが次第に少なくなってます。 時が流れても、決して忘れてはならないことは・・・・守ることは・・・ 「私たちは戦争を放棄します」 終戦記念日の記事から 「最後になるかも」息子亡くした101歳母、車いすで参列 全国戦没者追悼式に参列する最高齢者の松岡コトさん(日本武道館で) 戦死した息子の面影を胸に、母は101歳になった。 「最後になるかもしれないから」と、家族の反対を押し切り、15日、東京・日本武道館 で開かれた全国戦没者追悼式に足を運んだ。 「元気で帰ってくる」。別れに見せた息子の笑顔は、今も色あせていない。 だが、式に参列した戦没者の遺族のうち、「父母」はたった1人。 7割近くは「子」の世代で、その頭にも白髪が目立つ。 あの戦争が終わって、62年が過ぎた。 午前10時過ぎ、強い日差しの中を、車いすで日本武道館に向かう 松岡コトさん(101)(東京都杉並区)は、報道陣から「息子さんに何て話しかけますか」 と聞かれ、思わず両手で顔を覆った。 「戦争なんてあってはならない」。絞り出すように言った。 長男の松岡欣平(きんぺい)さんは、東大経済学部在学中の1943年12月、 学徒動員で出征した。20歳だった。 部隊に入営する欣平さんを、コトさんは自宅前で見送った。「元気で帰ってきて」。 涙をこらえて言うと、欣平さんは笑顔を返した。「帰ってくる」 しかし、欣平さんは、出征前の身もだえするような葛藤(かっとう)を、 その日記に残していた。 <九月二十七日 自分は命が惜しい、しかしそれがすべてでないことは もちろんだ。(中略)死、死、一体死とは何だろうか。(中略)政府よ、 日本の現在行っている戦は勝算あってやっているのであろうか> <十月四日 もう学問など出来ぬと半ば捨て鉢とでもいう気持ちになると、 小説がむやみに読みたい。(中略)ああ もっと本を読んでおけばよかった> <十一月某日 俺(おれ)は気が狂いそうだ。(中略)戦争、戦争、戦争、 それは現在の自分にとってあまりにもつよい宿命的な存在なのである。 世はまさに闇だ。戦争に何の倫理があるのだ> 小遣いはすべて本につぎ込む勉強家だった。出征後も度々はがきをよこした。 <母上様にもあまり苦労されぬ様、くれぐれも御体を大切にされますことを 遥かに祈っております> やがてその手紙も途絶える。45年5月27日、欣平さんは、 ミャンマーで空爆の直撃を受け、21歳で戦死した。 疎開先の富山県で、コトさんと夫の七次さんに、遺髪が届けられたのは、終戦直前。 三女の柿沼則子さん(72)は、仏間で泣き崩れていた父母の姿が忘れられない。 終戦後しばらく、コトさんは毎日のように道ばたに立ち 、復員兵が我が家に向かうのを見つめていた。 「もしかしたら、という望みを捨てきれなかったのだろう」と則子さんは思う。 「今年で最後になるかもしれない。どうしても行きたい」。 体調を危ぶむ家族にコトさんはそう言い張って、二十数年ぶりに全国戦没者追悼式 に参列した。「最近は布団に横になりがちなのに。何か感じているのかもしれません」 と、三男の彰平さん(67)は話す。 13日、コトさんは、式に臨む思いを静かに語った。「二度と戦争なんてあっちゃだめです。 私一人じゃなくて、子供を戦争に出した人はみんな同じ思いでいるのですから」 ◇ 欣平さんの日記やはがきは、「日本戦没学生記念会」(わだつみ会)に寄贈された。 16日まで東京・墨田区の江戸東京博物館で開かれている戦没学生の遺稿展で 展示されている。この日、20歳で死と向かい合った学徒の思いに、 来場者はじっと見入っていた。 (2007年8月15日15時32分 読売新聞) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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