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カテゴリ: 歴史全般
8月19日の美濃源氏フォーラムin伊予の歴史懇談会における、石野先生の講演資料の中の「中世主要地名分布図」に記載されている地名のうちから、尾張国境の「二木」「市橋」「茜部」がどのような位置であるか調べてみた。幸運なことにこの三つとも現在も地名として残っており、総て境川の右岸に位置している。
中世においては境川が木曾の本流であって美濃と尾張の境と言われているが、そうとするなら上記三つの地名は中世においても境川の右岸に位置し、境川との位置関係は現在と同じである。このことは、境川の規模は中世のそれより小さくなってはいるが、流路は余り変わっていないことを示す。濃尾平野の川の流れは変動が激しかったと推測されるのに、境川が中世から今に至るまで流路がほぼ同じと言うのは不思議な気もするが、流路を維持しようとする治水の努力などが作用したのだろうか。 境川が美濃と尾張の境であったとすると、岐南町、笠松町、羽島市などは、昔は皆尾張に属していたことになる。それが美濃に移ったのは、木曽川の本流が境川から現在の木曽川に変わった後の出来事のはずだが、その時期は知らない。なお、現在の木曽川は天正十四年(1586年)の大洪水で出来たと言う。本能寺の変の4年後に当たるので、信長は現在の木曽川を見ていないことになる。中世から戦国期の濃尾平野の歴史を考えるに際し、木曾川の変動をしっかりと認識しておくことが必要である。 【imajouの独り言から保存のため転載】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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私は完全に尾張の民なのですが、地元民としてはとても興味深く読ませていただきました。
境川と木曽川の関係をもっと知りたいとも思いました。 私は、中世以前のことについては、地元で毎年秋に開催されるシンポジウムにて「ほんの少し」勉強をしてはいますが、地元の歴史についてもっと知らなければならないなあと改めて感じました。 シンポジウムの資料を読み直したくなりました。 (いつできるかわかりませんが) (August 23, 2006 02:03:41 PM)
きすけ223さん
昔は境川が美濃・尾張の境で、現在の木曽川は1586年の大洪水で出来たと知った時は本当に驚きました。でも、この事実を知ったお陰で、中世の美濃や尾張の出来事の認識を誤らずに済むようになったと思いますし、今まで理解できなかったことが判るようにもなりました。 境川の件が判ったのはちょっとした情報が切っ掛けで、関連情報を集めていて辿りつきました。幸運だったと思います。 (August 23, 2006 09:51:11 PM) |