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いつものように地図トレースで旧式Macintoshと格闘している私のところに、主婦が電話をかけてきた。そして、いきなり謝罪をしている。
おいおい、今度はいったい何が起こったのだ。 「さっき、姉の同居人から電話がかかってきて、大変だったの」 「セクハラのマッサージ師か」 「ええ。夫のことで言いたいことがあるって」 「何を言いたいんだ」 「犬や猫じゃないんだから、夫を裁判にかけるのはやめろって」 バカか。犬や猫じゃないから裁判なんだろう。犬や猫が裁判するか? 「それで、あなたのところに電話するときかなくて。あんまりしつこいのであなたの電話番号を教えてしまったの。だから、もうじき電話がかかってくると思うんだけど、私では抑えきれなくて。本当に悪いと思ってる」 実は血の気の多い私は、以前からシャクの種だった姉の同居人と、電話とはいえ直接対決できるということで、内心は欣喜雀躍状態だった。しかし、常識的に考えれば、マッサージ師が私のところに電話をする道理などはどこにもない。私はひとまず冷徹に回答した。 「まあ、マッサージ師がそんなにかけたいのなら、かりにあんたが電話番号を教えなくても、今度はあんたの姉から聞き出して電話をしてくると思うよ。姉は私の番号を知っているからね。だから気にしなくていいよ」 「ごめんなさい」 他人任せにしてしまう悪癖については、主婦も夫も似たもの同士だと私は思っている。 「で、その『裁判』とやらだけど、あんたの夫がメールを公開して誹謗した件なら、もうカタがついたって言っただろう。あんたの夫が昼休み返上で、私に平謝りの電話をしてきたことをマッサージ師は知らないのかい」 「それが、マッサージ師によると、『訴えると脅かされている』って夫が涙流して相談に来たんだって」 出た。また涙か。 「『訴えられたらどうしよう』というぐらいのニュアンスで、私に電話してくる前に相談しただけじゃないのか?」 「それが、マッサージ師の話では、それを相談されたのは昨夜だって言うのよ。夫があなたに電話したのはそれよりずっと前のことだから、ちょっとおかしいのね」 「それは間違いないのか」 「マッサージ師は、私が夫と一昨日、渋谷で会ってることも知ってるわ。だから、相談が昨夜というのは本当だと思う」 ということは、夫がマッサージ師に、すでに決着がついていることをデタラメに「相談」しているか、もしくは、マッサージ師が、あえて決着済みと知ってて、わざとデタラメな話をしているのか。 「それさ。マッサージ師が、あんた方夫婦の問題について、自分が蚊帳の外におかれてたから、すでに決着済みのことをわざと持ち出して、それを口実に参加したがってるんじゃないの?」 「それはそうかもしれないけど、ただ、問題はその件だけじゃないのよ」 「というと?」 「デタラメの相談はほかにもあるの。たとえば、夫は迷惑と言っているのに、あなたが連日ポケットベルを鳴らすから、夫はノイローゼになりそうだって相談しているらしいの」 「夫がそう言ってるというのか」 「ええ」 「バカな。私はあんたの夫のポケットベルの番号を知らないよ」 「そうよね」 「団地への電話だって、保険証の件で一回かけただけ。あんたにお願いしたポケットベル連絡も、こないだのメールの公開の件と姑の件だけだろう。都合二回でノイローゼになるのか。そんなに気が小さいのなら、ポケットベルなんかやめちまえって言いたいね」 「だから、私からも『それは事実じゃない』って何度も言っているのに、マッサージ師は聞かないのよ。それならポケットベルをならしていない証拠を出せって」 「それを言うなら、連日ならしているという証拠を出すのが筋だろう。マッサージ師は挙証責任という日本語も知らないのかい」 私には、マッサージ師の知的水準の程がここで判断できた。 「あの人には理屈が通用しないの。いつもそうなんだけど、今日もお酒が入っているし。それで、私も私なりにがんばったんだけど、どうしても納得させられなくて」 「酒か。そういえば、姉夫婦は毎日毎晩飲んだくれているんだったな。ビール瓶が転がっていて、二、三軒向こうからでも酒の臭いがしてくるんだっけ」 「そう。マッサージ師は普段は気が小さくて自分の意見を堂々と言えないような人なんだけど、家に帰ってくると、姉を相手に酒を飲んで、いろいろ話ができるからそれが何よりの楽しみらしいの。世間の誰にも相手にされないから、そこで初めて人間らしさを実感できるのかしら」 「姉を相手に演説でもするのか」 「うぅん。何を言いたいのかよくわからない独白。文節をひとつ言うと、その後に『だからね』『それでね』という接続詞がくり返されるの」 「くぁー。そんなものをこれから私は相手にしなきゃならないのか。それにしても、そんなんで、マッサージ師はよく社会人として生活ができるなあ」 「もともとデザインか何かの仕事をする会社にいたんだけど、マッサージ師に転職したの。手に職とはいうけど、あの人の場合、人間関係とかわずらわしくなってドロップアウトしたような感じもするし。母親と離婚した私の父も、マッサージ師とは何度か会っているんだけど決してよく言わないし、私も今までなるべく関わらないようにしようと思っていたの。だから、そんな人に電話番号を教えて、またあなたに面倒かけてしまうのが本当に申し訳なくて」 「何にせよ、夫はいろいろ相談をしているようだから、当然、姑問題も相談しているんだろうな。夫婦の問題としてはそれがいちばん大きいんだからさ」 ところが、 「でも、その話だけは出なかった。それはしていないみたい」と主婦は言う。 なるほどね。夫は、自分に都合悪い話はせずに、自分が同情してもらえそうなことだけを相談しているわけだ。 今にわかったことではないが、汚い奴だなあ。 「夫が、マッサージ師に具体的にどういう相談をしているかはわからないが、今の時点で言えることは、少なくとも相談の事実はあったということだ。ポケットベルとか、裁判とか、真偽は別として夫から聞いたのでなければ知り得ない経過をマッサージ師は知っているからな」 「ええ」 「それだけでも見逃すわけにはいかないな。あんたの身内を巻き込むのはやめろって、私は夫に注意していたんだ。それでも姉のところに相談している。これは許さない」 「はい」 「私は、とにかくマッサージ師の電話を待つよ。そっちは、夫に連絡をとって、いったいどういうことなのか聞いておいてくれないか」 「わかりました」 主婦との会話を終えて受話機をおいてから一分もたたないうちに、ベルが鳴った。 再び受話器を取ると、泥酔した中年男の声が聞こえてきた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2003.03.29 05:15:35
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