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例のごとくトレースで悪戦苦闘していると、主婦から電話がかかってきた。
「夫の会社の社長から電話がかかってきたわ」 私は、ついに出てきたか、と思った。 夫は逃げる一方で、また半月近く膠着状態が続いていた。 どうせ奴はロクに仕事も手につかないのだろう。そんな状態が数ヶ月続き、社長ももう我慢の限界なのかもしれない。その限りでは社長もこの夫婦問題のトバッチリを食っている人間ということも言える。 「そうか。で、用件は?」 「私が間に入って話をするって。それで、今度、会社の方に行くことになったんだけど」 「そうか。なら、私も行くよ」 「いいの?」 「ここまでかかわったら仕方ないだろうな。当然、夫も交えた話し合いになるんだろう?」 「たぶん」 「なら、言いたいこともあるからついていくよ。私は、まだ一度も夫にあったことがないんだ」 「ああ、そうだったわね」 「今までもいろいろあったし、私だって一言二言、言う資格はあるだろう」 主婦にとって、この社長との付き合いは、東京に出てきて就職した印刷会社にはじまるという。主婦は、この社長について、当時の相場より高い給料を要求したり、社長が新しい会社を作るときも、誘われたにもかかわらず固辞したりしたいきさつがあるからか、あまり悪くは言わない。 それも、私には「ちょっとやりにくくなるかなあ」という思いを抱かせた。 ただ、それ以上に、この社長に対しては、私の留守番電話に入っていたメッセージと、直接話したときのギャップが大きかった「ダブルスタンダード」というイメージがひっかかっていた。 夕方、出向く前にちゃんぽんの店で腹ごしらえをしたが、正直なところ、あまり食は進まなかった。私は、この一連の出来事でトバッチリを食った立場であり、終始余裕綽々だったのだが、このときだけは何か妙な胸騒ぎがして落ち着かなかった。 「こいつは百戦錬磨のタヌキオヤジだ。夫とは違い、気をつけなければならない」 私はこの社長を直感的に警戒していた。 会社までは私の車で向かった。心の準備をしておこうと、途中、社長がどんな顔をした人間なのか、主婦に尋ねた。 「うーん、頭のはげた、背の小さい人」 私がイメージした、小柄なはげちゃびんオヤジに近い人物が、ちょうど車の横の歩道を歩いていた。開襟シャツを着て、集金用鞄を小脇に抱えている。見た感じ、近くで話すとヤニ臭そうで、やや高めの濁声で話しそうな感じがする。 「おい、あんなもんか?」と主婦に聞くと、 「ああ、ああいう感じかもね」 と答えた。 私は以後、会社に着くまで、そのオヤジとの脳内ロールプレイングに熱中していた。 そして会社に到着。 ノックして入ると、聞き覚えのある声をした小男が歩み寄ってきた。 「ああ、どうもご苦労さん。こっちにかけて」と、応接用のソファを指し、私を見ないようにして主婦に笑顔で声をかけた。 「しばらくだったねえ」 どうやら、この男が社長らしい。小男ではあるが、さっきのはげちゃびんオヤジとは全くイメージが違う。開襟シャツではなくネクタイもしていた。少しだけ声が太くなった橋本龍太郎元総理を連想すれば近いのではないか。 主婦は、社長に私を紹介した。私は名刺を出して堂々と挨拶をした。社員たちの視線を感じる。営業と思われる背広を着た男は、薄ら笑いを浮かべながらこちらを見ている。たいした男ではなさそうなので、本当なら、にらみ返すか、文句を言ってやってもいいのだが、場所と用件をわきまえてグッと我慢した。オフィスを見回したが、夫らしき人物は見えない。きっと別の部屋に隠れているのだろう。 社長は、一瞬こわばった表情で名刺を受け取った後は、また相好を戻して名刺をしばらく眺めた後、「ま、ここじゃなんだから、場所を変えよう。駅前のルノアールに行っててくれる?」と、今度は私を見ながら答えた。 車に戻った私は主婦に、喫茶店までの道を尋ねつつ、軽く苦情を言った。 「何だ、さっきのオヤジとは全然違うじゃないか。こういう交渉事は気持ちも大事なんだ。せっかく脳内で組み立てたイメージが壊れてしまうと、出鼻をくじかれたような気持ちになって後手後手に回ってしまう」 「ごめんなさい。何か忘れちゃったのよ、社長の顔」 「忘れたって……。夫よりも付き合い古いんじゃないのか?」 「うーん。でも忘れちゃったんだから仕方ないじゃない」 そうだった。この主婦の記憶力を私は忘れていた。この頭の悪さが、気持ちの切り替えの早さにプラスに働くからライター向きだと私は思っていたのだ。うーむ。こんなところでその負の面が出るとは……。 駐車場の場所探しがちょっと手間取ったため、喫茶店に着くと、すでに社長は奥のソファに陣取っていた。 そして、隣には下を向いて緊張している男がいる。 もちろん、夫である。 主婦からは何回か写真を見せてもらっていたので顔はわかっていたが、この日の実物はさすがに若干やつれて見えた。身長一七〇センチ、体重七〇キロというが、もっと背が高く、そしてもっと痩せているように見える。 「あんたが夫だね」 私は、ソファに腰掛けながら、思いっきり低く重い声で問いかけ、にらみつけた。 夫は、無表情な顔を上げ、かすかに頷いた。無表情といっても、「アウト・オブ・眼中」というニュアンスのそれではない。もしそれが科学的にあればの話だが、魂がすでにその場から逃げ出してしまっているような無感性な面持ちだった。よほど緊張し、そして私をおそれていたのだろう。 しかしな、夫よ。それは私のせいではなく、みんなあんたの自業自得なんだよ。 怖がっている夫には悪いのだが、主婦の大ボケのおかげでいきなり気持ちが負けていた私は、流れを自分の側に持ってくるために、ちょいと乱暴だが、唐突に夫を怒鳴りつけることで主導権を握ろうと企てた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2003.04.06 06:04:19
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