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三田のいのしし 見て歩き日記

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2009年09月23日
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カテゴリ:観光・旅行

坂本龍馬が来年のNHK大河ドラマに決まっているらしい。

今回は、岩崎弥太郎と言って三菱商事KKなど三菱王国を築き上げた一代の傑物と言うか怪物の目を通して書き上げた物になるらしい。

幕末から明示にかけて数えきらないほどの英雄が輩出したが、この方達の最後を眺めてみると
1. 坂本龍馬   33歳    慶応3年、京都で暗殺された。
2. 西郷隆盛   51歳  明治10年、鹿児島の城山で自刃 51歳
3. 桂小五郎   45歳   病死 45歳 後の木戸孝允
4. 大久保利通  49歳  明治11年 暗殺された。 49歳

などなど。
天寿を全うされたかがほとんど居ないことが不思議と言えば不思議ですね。
織田信長、豊臣秀吉しかり。

そこへいくと徳川家康は75歳と長命でまるで天が彼に社会の安寧を付託したかの感がします。

変革期の英雄はその死様がどうであれ、天命を全うしないのは、成し遂げた功績とその後に来る仕上げには、逆にこれらの英雄は邪魔だからお退きなさいと天が配慮をしめている・・・そんな気もします。
そういえばアメリカのリンカ-ン大統領も奴隷解放宣言の後に暗殺されましたね。

余談であるが;
今回の民主党による政権の交代は、まさに数十年、いや、100年に1度の政治経済の変動をもたらす可能性がありますが、誰が今後共に社会の付託に応え、誰が使命を終えるのか注目されますね。

長くなるが、これまでの自由民主党はまさしく天がお退きなさいと命じたと思われます

さて、
津野町は布施が坂の道の駅の写真からいろいろ記述致しましたが、龍馬脱藩の道としての痕跡は他にもあるでしょうが、今回の8月30日、妹との旅では時間があまり無いので四万十の源流点や四国カルスト台地(1000m~1455m)などの観光は割愛させてもらい、その足で梼原町へ向かいました。

いよいよ『龍馬脱藩に道』 そのものに近づき、歩き、写真を撮る事になりました。

司馬遼太郎【龍馬がゆく】によると、「文久2年(1862年)3月23日梼原から愛媛県へ抜け脱藩に成功した。」とありました。
(ある文書によると3月24日高知を出奔し、25日に脱藩と在りました)

龍馬脱藩の道-1
「龍馬脱藩の道」 梼原町のHPにもこの辺りが紹介されておりました。

今から147年前のことで、左手前の杉が巨木だったので、ひょっとしたら龍馬もこの杉の木の幼木横を歩きながら、この道を登ったかも知れないと想像をたくましくした次第でした。

上の写真の坂を登ると
小さな丘
小さな丘に出て、ゆるく左に曲がり100mぐらいでさらに高い丘につながっておりました。
愛媛県との県境はさらに歩く必要がありそうでしたが、時間が無いのでこの道まで歩いてみて引き返しました。

梼原に於ける歴史的建造物と龍馬脱藩の道三嶋神社
三嶋神社 919年領主の津野経高公が勧請して建立された神社の現在
1100年の歴史がある。

坂本龍馬がここを通って脱藩したからと言って、文字通り辺鄙な人家のない田舎道と即断して頂きたくないところであります。
それだけに郷士仲間的立場の人たちも居れば、山内家に通じる高級な武家の住まいも点々と存在して龍馬と沢村惣乃丞は周辺に気を配り、気を尖らせるこたことでしょう。

こま犬4-1
境内のこま犬(雌)

こま犬4-2
こま犬(雄) 気張っているところが可笑しい。

この境内にはハリモミの巨木がある。
1592年津野親忠公が長曽我部軍を引き連れて秀吉の命令で韓国に渡った際、持ち帰った苗木が育ったと言い伝えがあるようで、樹齢400年余。

翻ってこの三嶋神社へは屋根付きの橋”御神幸橋”を渡ってはいる。
御神幸橋
御神幸橋 屋根付である。

この御神幸橋を渡って神社の前を左に、垣根に沿って通るのが龍馬脱藩に道である。
こんな立派な神社なので人目も多かったのではないかとやや疑問を感じました。
龍馬脱藩の道-3
龍馬脱藩の道神社の横

夕方通過したのでしょうか。
この御神幸橋の手前に公道があり、その両側には大変小奇麗な、あるいは現代的な住宅と店舗が並んでいて龍馬の時代との相関でイメ-ジがわきませんでした。

 

四国カルスト台地
四国カルスト台地 梼原町hpより

 

四国、特に高知県といえば南国のイメ-ジで、暖かいが相場ですが、この四国カルスト台地は1000mから1455mの高山で冬は寒く、スキ-場もあるはずで、風もまた強く、風力発電機が何台か廻っておりました。
尚カルスト台地の典型は山口県の秋吉台です。

石鎚山のように2000m弱の高さでなくても、四国山脈を背にした高地の暮らしに変わりがありません。
山肌と小川の縁を耕した暮らしが現代も続いている事が車で走り回ってみてよく理解できました。

郷士について
土佐・高知県における郷士は;
1600年に入した新しい藩主山内一豊公の引き連れてきた藩士に対して、長宗我部軍の残党が当初平民に落とされたが、やがて山内家ご家老野中兼山が行った藩政の中で殖産と政治の安定を兼ねたであろう政策で、苗字帯刀を許す郷士が成立していった。
大まかにはこんな経緯で郷士が生まれたらしい。

江戸時代の土佐の人間は、山内家の家人と郷士、それに平民(氏姓がない)で成り立っていたと思われます。
1. 最も分らないのが平民と言われる方々の山内家と家人、郷士に対する気持ち。
2. 郷士はおおむね山内家と家人に対して反発しながら、名字帯刀で地域地域に於ける
     地盤を固めていたと思われます。
   新天地での開拓が認められたので、山内家に対する不満が減っていった事でしょう
    ね。
  (我家の例 津野町から四万十町へ分家したとの言い伝えあり)
3. 坂本龍馬の家、坂本家は遠祖は明智で、商家が郷士株を手に入れたらしい。
4. 郷士と言われる我家も、後には土佐藩の命令する奉仕と言うか、動員令に四苦八苦
     したとの言い伝えもありました。
例えば、この龍馬脱藩のように何か事件が起こると駆りだされた、それも明治10年の西南の役の頃までは、土佐も政情不安定の余波で苦しみ、鎮圧もしばしばあったと思われます。
多分明治になっても帯刀しての出陣だったのではないでしょうか。

これらの事は、この津野町や梼原町辺りでも同じ事だったと思われますので、余談を追加いたしました。

 






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最終更新日  2009年09月23日 16時13分50秒
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