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テーマ:今日のこと★☆(106322)
カテゴリ:話題
平成7年(1995年)1月17日 5時46分 阪神淡路大地震で食堂のテ-ブルにしがみついた。 あれから15年、何時もよりか遅かったが5時46分に余裕のある時間に寝床を離れて1階の居間食堂に降り立ち、あの時と同じように食堂のテ-ブルからテレビを見ながら、地震の時間を待ちました。 5時46分には 居間でテレビに合わせて黙祷を捧げました。 この15年間は社会的にも個人的にも大変な激動期で感慨無量であります。 3. 今日、手術後15年と言う事で5年生存のデ-タに貢献できる事を喜んでおりますが 4. 癌の告知について 5. この平成7年(1995年)は1935年(昭和10年)に誕生してからちょうど60年で、一般 6. いまの方々には信じて頂けないでしょうが、我々の時代は定年が55歳が普通で、 7. 1998年は娘が結婚、また、長年の念願であったハワイのフルマラソンに挑戦し、 元へ戻って、平成7年(1995年)1月17日 5時46分 私は何時も朝食は自分で整え、一人テレビを眺めながら早朝の一時を食堂で過ごすのが数十年の日課でしたから、いつも通り4時台に起床、新聞を取り込んでテ-ブルに広げ、一方ではテレビを眺めながら食物を胃に送る作業に邁進しておりましたら、あの激震! 思わず箸を投げ捨ててテ-ブルの端に両手を持って行きしがみ付いたことを覚えております。 最も。それから15年、あの時の悲鳴について言及しても誰もそんな声を出した覚えは無いと言い張るので、いまだに? のままです。 三田から大阪の駅前第二ビルへ通勤できたのは19日、福知山へ逆行してから京都へ出て、京都から大阪へ行くことができました。 会社の先輩、同僚が神戸市東灘区にお住まいで、何人も亡くなり、我々もつらい思いを致しました。 昭和21年の南海大地震や昭和60年ごろ千葉県で発生した大地震で地下鉄に閉じ込められて1,2時間御徒町駅を目前にしながら恐怖に耐えていた体験がありましたが、この阪神淡路大震災は、自宅の被害は軽微でありましたが、いろいろな方の見舞いを兼ねて三ノ宮から芦屋まで歩きで数回通いましたので、何時までも忘れる事の出来ない地震です。 中国縦貫道の下を断層が走っているなど、厳しい条件下にあることも知れてきて、阪神淡路大震災が過ぎたから等分の間大丈夫などと暢気な事は言えませんね。
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最終更新日
2010年01月17日 17時03分50秒
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