三田のいのしし 見て歩き日記
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プロフィール
さんだのいのしし
三田のいのししは85歳であります。この年頃は、全ての事柄がスロ-で、聴力、視力、嗅覚・・・が落ちている上に感度が鈍くて、結構素早く対応できていると信じ込み安い傾向があると思っている。そこで、このブログでも日々感度の回復に挑戦したい。
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(2) 戦国城下町の内・・・復元された町並みの散策 13日(金)かねてから期待の大きかった一乗寺谷へ周遊500円乗り放題のバスで かった。 その内、大名であった朝倉義景公の館跡の唐門については、その6に纏めました この7項目目は、現在の遺構で申せば、その朝倉義景公館との間に一乗寺谷川 をはさんで、城下町の街並みの一部を再建して公開している。 太平洋側では太陽が東南側の海から上がる感覚があるが、福井では北西側に海 あって、山から太陽が出るので、多少感覚ずれがある感じだった。 一乗寺谷は、福井市からは南よりにやく10kmの、足羽川の支流である一乗寺谷 川に沿った山間にあったので、川は南側上流であり北側から海に繋がるのであろう が、大まかに言えば上流に向かって左側に大名の朝倉義景公を含む支配層の屋敷 が集まり、川の右岸などには武家町民、寺院などが存在したらしい。 現代であれば、福井一円を支配した朝倉家がこんな山間に城下町を築いていたと言っても、想像できないであろう。 しかし、当時としては、この山間だからこそ素晴らしい、戦略的な地形と評価された市街地であった。一時期、最後の足利将軍がこの地にきてお寺に滞在していて、この朝倉家の庇護をうけたそんな有力大名であった。 1. 当時、人口が10,000人だった。 2. 山間で一乗寺谷川の両岸に住居がある地形から、川上側と川下側に城戸を築い て護りとしたようだ。 今回の城下町遺構の散策では、その城戸までは出かけられなかったので写真もない 、巨石で5mほどの高さに組み上げた堅固な構えであったとか。 3. (1)侍町に道路から見た屋敷景観 かなり正確な復元らしい。武家屋敷の入り口の間隔からも立派の役持ちの 武者の屋敷地域らしい立派な通りだ。 (2)屋敷を隣家の垣根越しに見た姿 当時は、屋根は板葺であった。 庭の隅にある小屋は、便所らしい。 商工業者か武士の住居かは、はっきりしないが、かなり狭いようだ。 の寒い雪国で、夜間便所に出かけるのは一苦労であっただろう。 (3)井戸が庭にある屋敷 井戸の後方にある家は、物置や従者の住まいらしい。 (4)便所 大が2個、男子専門が2か所ある大きな便所 かなり大きな屋敷だったのではないか。 大が2立つ、男子用が二つある。 私の実家は、現在でも便所は家の外にあり、冬の寒い夜、満天の星空のした と言えども外の便所へ行くのには勇気がいりましたが。 (5)商工業の建屋(1) 商工業者の店舗の並び-1 (6)商工業の建屋(2) 特に意図があっての掲示ではない。 城下町だから、武家の屋敷以外にこんな形で商工業者の住まいと店が あったらしい。 (7)手斧で削り柱とした建物の見本? 屋根が板葺であったことと柱を手斧で1本、1本削ることで出来上がった見本。 こんな手斧跡も生々しい柱を作り出すだけでも 大変な労力と経費を必要とした 思われます。 この建屋見本は、中世のわが国の遺構を知るうえで素晴らしい手本となると 断定しても おかしくないと思います。 このことは余談ながら、小説家山本一力さんが、江戸の深川でしょうか、木場で 働くく板ひき職人 の技に触れておりますが、板の厚みが現代の如く数ミリではな くて、センチ単位で挽けても最高の職人であった時代です。 そのくらい,杉や檜、モミなどから板にすることが大変な仕事であった時代の遺構 あると考えたが良さそうです。 (8)戦略的道路の設計 この写真のように道路に曲がり角をつけるのが城下町の手法であり、江戸であって も直通の道は戦略的に 喜ばれなかった物と思われます。 時代も下がって、人家の密集から火事を防ぐために、町割りが変わり屋根も瓦葺に なっていったが、道路を複雑にした遺構は今でも全国どこにでも残るところです。 今回見て廻った遺構は、完全な再建でありますが、元の礎石、井戸などがそっくり残っていたために、非常に価値のある遺構再建の実現を見た例とみられます。 ご都合のつく方は是非一度ご覧下さい。