2016/02/09(火)11:02
再び別当に関する話題です。興味深い情報が載っているブログ・HPについて
正確ではありませんが、奈良・平安朝時代からこの別当という職制は、宮廷から庶民に近い様々な場面で生きていたらしい。明治2年頃に廃仏毀釈があって多くのお寺さんが無くなったとされておりますが、高知県の片田舎であったわが家の付近でも今は畑ですが、その際お寺が壊されたと言い伝えがある。その証拠として、我が家にも樒(シキミ)立てが遺物として残されております。さて:インタ-ネット検索で出合った別当・社坊、社僧に関する情報その一 平安時代から平家・源氏にかけての武将斎藤別当実盛さん 沢山いた別当さんの中で大変有名であり、子供の頃から覚えていたこの別当の 斎藤実盛さん、子供の頃家族と生き別れた木曽義仲を保護して育てたのに、平家 方の斎藤実盛が源氏の木曽義仲に討たれた悲劇として有名だとか。 ともかく、この別当は当時の貴族や源氏・平家の都人に代わってその領地を管理 したその役割名が別当だった・・・この役割の別当職も沢山いたらしい。 神社やお寺の屋根につけられた懸魚
記事には直接の関係はありません、区切り、神社仏閣の建物で目につく。その二 社坊について 貴志御霊神社の社坊は金性院だった。 (貴志御霊神社のご案内から) ネット検索によると (1)神社の世話をする為に神社の中、または近くに作られた寺のことです
(防府市歴史用語集より抜粋)
(2)しかし、明治時代になって仏教を排除しようとする考え(廃仏毀釈)が 広まり、多くの社坊は無くなります。 (3)防府天満宮には大専坊、円薬坊など9坊が参道沿いにあったらしい。 その中でも、大専坊が別当寺であり他の8つの社坊の管理を含めて別当 の務めを果たしたようです。 (4)神護寺、神宮寺も別当寺の一つですが、坊が付くお寺も別当寺だと推定 してもよさそうです。 懸 魚 かぶら懸魚
その三 「社僧」について: 本地垂迹説に基づいて発展した神社付属の寺に置いては、仏事を修して神社に 奉仕する僧の事を「社僧」と呼んだ。 奈良時代にすでに神宮や諸大社付属の寺に住していたが、平安時代になると 一般化した。 梅鉢懸魚 厳島神社 破風に付けられる防火の御呪い
六角形の梅鉢懸魚
建物の都合で5角形に見えることもある。
もともと中国、干し魚を防火の御呪いにしたところから「懸魚」とされている。その四 別当の階級
別当、検校、勾当 どれが一番上か不明ですが、検校との情報もあった。 江戸時代などは盲人を保護して、その位としてこの呼称も流通していたらしい。 懸 魚 かぶら懸魚
その五 例 神奈川県藤沢市稲荷 大庭神社に関して:
(1) 延長5年(927)の延喜神名帳に相模国の延喜式内社13社ぼ一つとある。
(2) 江戸時代においては、天満宮、大庭大明神、大庭天満宮と呼称。 (3)その由緒
・・・最終行にみえる。
明治の神仏分離令以前は当社裏にある成就院が別当寺として、当社の 管理を行った。私が現在住んでいる三田市はもともとは勿論三田の地名があったわけではなくて、大きく言えば 奈良時代は有間郡の一集落だったらしい。有間皇子が天皇の継嗣問題で殺されてから、その領地としての役割が変化したと思わるれる。郡名が有馬郡に変わった。現在の神戸市北区がその地に当たるだろう。その有馬郡の諸地域は宮廷や貴族、寺院、神社の領地としてその上がりと献納するので、六甲山裏の不便な地域乍ら中央との繋がりは強かったものと思われます。大化の改新の立役者の一人藤原鎌足のお子さんが中国に留学して帰り、この三田の地に金心寺を開き、場所を変えて今日も残っておりますが、奈良時代の創始されたこのお寺が神仏習合から廃仏毀釈までその時代時代の変遷をすべて見てきたわけですから、一度はお訪ねしてその歴史的雰囲気をたどりたいものです。今回は、試みとして撮りためておいた懸魚を挿入してみました。典型的なかぶら懸魚
昔、我々の祖先が素朴な氏神様から始まった多くの地縁の神様と中国・朝鮮から入ってくる仏教との習合の中で懸魚もその一つとして生活習慣の中へ取り込んでいったことが想像されます。氏姓は明治時代までは庶民は許されませんでしたが、この懸魚もその建物には付けることを許されなかった。そこで妻入りの破風の下にその家の家紋や水の図案化した物が貼り付けられたり、破風でも庭側には工夫があったかもしれません。別当、社坊、社僧などもこうした庶民ともつながって存在したのだろう。