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テーマ:こころの旅(60)
カテゴリ:文化
最近バイオエナジェティックスの本を読み直している。
そのなかでも興味をひかれたのは、個性をうらやむ東洋人というくだりだ。 72年に書かれた本だけれど、それでも今の状況にあてはまるように思う。 以下抜粋 「私は数人の東洋人とワークをする機会あった。彼らの感情は、アメリカ人とくらべると、比較的表層部分にあったにもかかわらず、それを外にだすことがとても難しかった。東洋では感情を表にあらわさないのが習わしで、子供のころ、そうした行動をとって、恥ずかしいめにあったと、彼らは話してくれた。私が観察したのは数人にすぎないが、東洋人の無表情な顔については、以前から知っていた。とはいえ、家のなかであけっぴろげに感情をだすことは控えられるにせよ、彼らの家族のあいだには、愛情や、ぬくもりや、理解がみられる。東洋の国々の過密な生活状況を考えると、表現の抑制は、プライバシーを守るうえで必要な、文化的適応索なのかもしれない。 東洋人が西洋のやり方に魅かれる理由は、その進歩した科学技術だけにあるのではない。それよりもむしろ、彼らは、西洋文化にみられる個人主義の精神や、自由な自己表現を自分のものにしたいと願っているのではないだろうか。西洋人と一緒にいると、自分の感情表現をブロックしていることが、ハンディに感じられる。自分だけが制限されているように感じてしまうのだ。個性とは、自己を表現するということであり、これは感情をオープンに表現するということである。したがって、感情が抑制されていて、表現できなければ、自己表現する自由があたえられていたとしても、あまり意味がない。深い感情がしみこんでいない個性は、単なる見せかけであり、自我イメージにすぎないのだ。ところで、私たちアメリカ人は、外見をよく見せることが得意なので、東洋人がそれに魅かれて、中身をよく確かめもしないで、私たちの製品である個性に手をだしてしまうと、損をすることになるだろう。東洋の人たちは、個性をもとめるあまり、、自分の感情を犠牲にしてまで、うすっぺらい自我イメージをつくってしまわないように、注意すべきだ。」アレクサンダー・ローウェン著 甦る生命エネルギーより 近頃ますますアメリカ化が加速しているように感じる。 以前からアメリカの影響下にはあったけれど、それでも日本はやはり日本であった。 それが今ではライフスタイルや価値観そのものがアメリカ製に取り換えられようとしているのではないだろうか? それもまたアメリカのネオコンたちが主導する構造改革の結果なのだろう。 欧米的価値やスタイルを否定するつもりはないけれど、日本的、東洋的価値をかくも無残に捨て去ってしまってよいものだろうか? 西洋文化に功罪があるように、日本文化にも功罪があるはずだ。 何も今に始まったことではないけれど、どうしてこうも日本人は自分たちで自分たちの価値を量れないのだろうか? スポーツだけならまだしも、映画やアニメ、小説までもが、海外で評価されてようやく安心して自分たちを評価しはじめる。 なんという依存なのだろう? 自分で自分に価値を置けないのなら、うわべの個性に何の意味があるのか? この内発性のなさは漱石のころから何も変わらない。 それは日本文化の罪の部分ではないのか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007/10/16 01:54:58 PM
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