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お気楽ちゃんねる [ツイート]16:32 思考を主人にするのではなく、思考を友人にするってことですね。へえなるほどね~ きみはそう思うのかい・・そんな感じで、思考ら離れて、うまく付き合うことができれば、思考の支配から解放され、とても便利な道具になります。 思考に実体はありません。132p が、思考さんは、私たちに知恵まで授けにわざわざやってきてくれるのですよ。136p 思考もまたよきものです。彼もまた生命の一部なのです。186p (カンポン・トーンブンヌム) マインドは友達。 マインドが苦しみの根源だからといって、マインドは悪者ではありません。 マインドと友達になることです。 (シュリ・アンマバガバン、『こころの扉を開く旅』から) そうですね つい、『本当の私』が 『偽の私・肉体の私・思考・感情・幻影』を、 他人事のように観る、 なんてことをしてしまいがち。 でも、思考さんは、主人でもないと同時に、 知らんぷりの他人事でもありません。 これだと、クリシュナムルティの言う分裂そのものですし、 仮の平安はあるのですが、やがて、アチコチぶつかりだして、分裂の苦しみに襲われます。 私のインド帰国後の実体験でもあります。 たしかに、プログラム、運命を、無干渉・冷静に観る、というのは、平安な気持ちをもたらしますが、 それを続けると日常では、どんどん離人症状が出てきたり、 自分は無干渉に観るということを続けても、相手が強引な言動で関わってくる場合、もちろん自分の反応などもオーバーラップして観ていくのですが、追い付かなくなります。 (ミャンマーの僧院や、ヒマラヤ山中で、俗を捨てて、出家修行に没頭するなら、それで良いでしょうが。) 『友人』という感覚と、 先の日記に書いた 『当事者と観察者という区分け・分離なく、まったく一体』、というのも、このことです 当事者として抱きしめながらも、観照がある その感じ。 マインドそのものは、幻影だし、 マインドが作り出す物語も幻影。 だけど『たかが物語(ドラマ・幻影)』だけでなく、 『かけがえのない物語』でもあるのですね (もちろん『かけがえない物語』であり、でもやっぱり『物語』) interーbeing oneness (このことも、私の体験であって、他の方に当てはまるかどうかは、わかりませんし、真実でないかもしれません。 ただ私は救われたというだけのことでしかありません。 ドンピシャの言葉に遭遇すると、スッキリするものです) 冷たく、切り離した、観察、(すなわち、観察者が、当事者を、観る) そこで苦しみを感じている方には、 当事者であり観察者であり、人が居なくて観照だけが在る、 そういう瞑想をおすすめします。 (それも、ハプニングではありますが。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.04.10 10:17:51
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