その後の父の様子平成17年8月夏。4月から勤務が忙しくなり、暫く帰省をしていない。 御盆過ぎたら一度帰ろう。 釧路の父と母、二人のペースでのんびり生活をしている。 かなり物忘れの多い二人(話したことを忘れている) 母は、父が癌で苦しんでいた時のいろんなことを忘れかけている。 父も一見しっかりしているが、話した内容などを、、、そうか、、?と聞き返す。記憶に無いのかな。 父は、癌だったことが嘘のように元気な毎日。買い物に行ったり、銀行に行ったり、冬以外は適当に外出しているらしい。秋には私の所(茨城)にきたいと言う。 本当に感謝するのはニューウエイズをすすめてくれた友人と、その友人Hさん。Hさんには事あるごとに、長男の骨折、リンパ節の腫れによる高熱、私の子宮のトラブル等御世話になっている。薬ではないにしても我が家の救急箱には これらが存在している。 だけど これらだけは、読み流してほしい。 これは我流の私のやり方であって、他人はまねしないでほしい。 今父と母は、マキシモルとノニしか飲んでいないようである。いろんなサプリメントを常備しているけど飲んでいないようである。もったいないね。 時々父には美味しいお酒(純米酒、大吟醸)を、元気なうちに飲んでもらおうと送ってあげる。これが一番の父にとってもサプリメントだ。 困るのは保険など大事なことも、え??と聞き返すこと。そんなことあったっけ?? 老人が犯罪に巻き込まれるのも分かる気がする。 遠く離れているので把握が難しい。ましてや 毎日サプリを飲んでいる事は期待できない。実際平成17年春からは、父も治った気でいるので 全くといって飲んでいない。逆にがん細胞に栄養を送っている結果になるかも。 家の前にアパートがたったよ。。。 くれば良いのに。。長男。 まだまだ姑くは二人でいると。。。そうか、そうだね。 平成17年8月下旬 首のリンパの腫れが気になる。癌の再発か。覚悟をしておこう。 平成17年10月 本人も、首の腫れはだんだん気になるらしい。 明日父が首の腫れの診察を労災病院で受ける。癌の再発か。 母の軽い認知生涯も気になる。 この頃からじわりじわり幹部から出血が始まる。貧血は出ていない。 平成18年1月、 毎回繰り返す出血の手当をヘルパーさんにはできなくなるため入院して処置してもらうかたちとなる。あとは、ゲンタシン軟膏などで塞がれてしまう。私が帰省した時飲み外泊を許される。月に2度の帰省は結構きつい。 それでも父のためがんばった。患部は出血すると少し萎縮していた。でもしっかり出血を止められてしまっている。医師ともめた。何故出血を止めるのかという私の考えと、出る血は止めるのが当たり前というドクター。間に入ったヘルパーさんや従姉妹も、これ以上医者に逆らって手当は出来ないと、入院を勧める。納得いかない入院。 春に、父はパークゴルフに出かけている。それほど元気。しかし腫瘍は大きくなっている。 毎朝6時前にエレベーターで下りていって新聞を買いにいく父の姿が忘れられないと看護士さんに言われた。 (あとは記憶が曖昧なのでメモ) 7月、余命は、秋までと言われる 。個室に移る。。。 ガーゼの下の傷は ここ2,3ヶ月取り替えてもらっていない。悪臭が漂っている。理由は出血を起こすから。。処置が大変だから。 いつもお願いだからもう一枚ガーゼをはがして、、と浸出液で濡れているガーゼをうすーーくピンセットでとってもらう。 傷口が臭いのでドクターが 衣類、部屋の匂い消しを使っていた。 ”赤ちゃんがなめても大丈夫”というたい文句のもの。 ふざけるな!と抗議。もちろんP&Gにも電話をしたら直ちにやめてくださいとの事。あの医者は許せない! 午前と夕方と父と過ごす。時間差で従姉妹が母を連れて来てくれる。 まだ母には事の重大さがわからない。 7月、喉を食べ物が通らなくなって来ている。 まず個体のサプリメントはもう無理。 Dトキサレイトが喉につまり苦しそうだった父をみて、もう、飲むのはやめよう。。と マキシモルとノニだけで 栄養補給を目的に飲んでもらっていた。 5月の帰宅が最後だったのかな。。父と歩いて家までかえって途中ジンギスカンをランチに食べた。二泊の予定が 出血がひどく一泊で戻った。これが最後だったと思う。 8月 立つのも難しくなり、尿の管を入れた、とてもいやがり、とりたいと繰り返す。モルヒネのシールを使い始めて 意識が朦朧となり尿管を入れているのを忘れて盛んにトイレに行くと 訴えた。 何よりも働いていた自分に戻って 背広を着て出かける。支度をしろ!と 私が秘書のように扱われた。看護士さんも同じ。 みんなでよいしょ!とご機嫌を取り和やかに看護に携わった。いい思い出。 お盆のころ、 高熱が続く、39度、を繰り返す。モルヒネで意識が朦朧としたりしている。それでも父の言いたい事はしっかり聞いた。遺言になるのかな。。。お寺の事とか。 夜病院に泊まった、時折目をさまし 私がいるのを確認して小さく頷いてまた眠りにつく。 一人家にいる母も心配。 平成18年8月26日午後4時45分 午後様子が変なので従姉妹に電話、母を連れて来てほしいと。 父の大好きな大吟醸を口の中にスプレーしてあげた。 酸素濃度がゼロを切った。看護士さんが電池切れたのかしら?と慌てていた。 そうこうしているうちに父の脈が途絶えた。 とにかく、言っておこう”お母さんは大丈夫。私が守るから” 父は母を愛していた。 父の愛していた母は私が守る。 延命処置などはしないでくださいと行っていたので医者もいなかった。 これでいいと思う。 家族に見守られて父は旅立った。私は最後まで手を離さなかった。 母が泣き崩れる。 自分がしっかりしなくちゃ。。と 冷静にいられた。 死とは、こんなに簡単に終わってしまうんだ。 父の癌との戦いは終わる。静かに眠るようにこの世を去った。 大好きな世界で一人のおとうさん。。。さようなら。 ごめんなさい。たすけてあげられなかった。 癌には勝てない。 ジャンル別一覧
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