敗軍の将、兵を語らず 【史記・淮陰侯列伝】
漢を打ち立てた劉邦の優秀な部下の韓信将軍は悩んでいた。魏を征伐し、趙に向かっていた時のことである。趙の井ケイ(せいけい・河北省セイケイ県)の狭い道をどう通り抜けるかということ。趙には広武君李左車(こうぶくんりさしゃ )という名将がいた。漢の大軍が狭い道にさしかかり、隊列が伸びに伸びて長くなったところを見逃すはずはなかったのである。織田信長が桶狭間の戦いの時、今川義元の2万5千の大軍を打ち破った状況に似ています。韓信の心配は杞憂に終わったのである。趙に忍ばせていたスパイの報告によると、李左車の作戦は趙の宰相・成安君陳余に退けられたということだった。「名門・趙ともあろう国が、隠れて騙し打ちなどという戦法は取れない。我軍は20万。それに引き換え韓信は劉邦に援軍を送ったために3万あまりではないか。それでは卑怯者の風評がたってしまう」喜んだのは韓信である。やすやすとセイケイの狭い道を通り抜けたのである。その後の戦いが、有名な背水の陣の故事になったセイケイの戦いである。韓信は背水の陣を敷いて、逃げるための船も焼いてしまい兵に勝つか死ぬかの決断を迫ったのである。結果は、漢はまさに死に物狂いで戦いかろうじて勝利を収めたのであった。韓信は、全軍に李左車を殺さずに生け捕りにするよう通達していた。そうして李左車は韓信のまえに引き出されてきたのであった。韓信は厚く礼を尽くして広武君に聞いた。 「私は北の燕と東の斉を征伐するつもりです。どうすればやり遂げれるでしょうか?」広武君は腰を低くしていった。「『敗軍の将は以って勇を言うべからず、亡国の太夫は以って存(国を保つ道)を図るべからず』と聞いております。いま私は戦いに敗れあなたの捕虜となっています。どうして大事を語れましょうや」「それはご謙遜というもの。私は 百里ケイ(ひゃくりけい)という賢者が虞の国にあって、虞は亡び、秦にあって、秦は覇を唱えたと聞いております。 これは決して、彼が虞で愚者であったが、秦に来て智者になったわけではありません。君主が彼を用いたかどうかということ。 もしも、成安君があなたの計略を取り入れていたならば、この韓信ごときはとうに捕らわれていたことでしょう。 彼があなたの計略を入れなかったがために、私はこうしてあなたにお尋ねする機会を得たのです」「わたしは心底からあなたの教えに従う覚悟があります。どうかご謙遜なさらずにお教え下さい」韓信の熱弁はやがて広武君李左車の心を動かしたのである。そうして李左車は、燕と斉討伐の秘策を語ったのである。韓信はその秘策をもって燕と斉を平らげたのであった。 【史記・淮陰侯列伝】より『敗軍の将は以って勇を言うべからず、亡国の太夫は以って存を図るべからず』から、『敗軍の将、兵を語らず』の言葉ができたのです。過去記事で背水の陣をとりあげています。背水の陣 史記