憲法改正のための国民投票
今日は、憲法改正国民投票の話題です。CNNTurkのインターネット版の記事を紹介します。 5月に憲法改正案が国会で可決されてから、トルコの政治情勢が変わったことはこれまでに書きました。一言で言ってしまえば、憲法改正案が可決された段階では、与党AKPは新しい大統領を国民投票で選ぶことを主張し、第一野党CHPは国会議決で選出することを主張していましたが、7月の総選挙の結果として成立した新国会で、今のギュル大統領が選出されたために、エルドアン首相が方向転換したということです。 5月に可決された憲法改正案では、ギュル大統領が務める第11代トルコ共和国大統領は国民投票で選ばれることになっていたため、憲法改正案を修正して、ギュル大統領は現制度最後の大統領とすることとし、次の第12代大統領から新制度に移行するための修正案を可決しました。 今回の憲法改正案の主な改正点は次のとおりです。国会議員の任期を、現行の5年から4年に短縮する。大統領を国民投票で選出する(これまでは国会で選出)。大統領の任期を7年から5年に短縮し、1回のみ再選されることができる。大統領選挙では、有効頭数の過半数を得たものが当選する。過半数を得た候補者がいない場合は、2週間後に、1位と2位であった候補者による決選投票を行う。 そして、来る10月21日(日)、トルコ国民は5回目の国民投票を実施するために、投票所に行くことになりました。今回の国民投票の有権者は4,262万9,733人と認定されました。有権者はトルコ全土に設けられた13万4,700の投票箱に、憲法改正を支持するか否かを記した投票用紙を投函します。 これまで国民投票が行われたのは次の4回です。1.1961年7月9日 トルコにおける最初の国民投票は、1960年5月27日の軍事クーデター後に準備された1961年憲法を制定するために行われました。 1,273万5,009人と認定された有権者のうちの1,032万2,169人が投票し、そのうちの61.7%が賛成し、38.3%が反対票を投じました。2.1982年11月7日 2回目の国民投票も、軍事クーデター後の新憲法のために実施されました。今度のクーデターは1981年9月12日に起こりました。実際に軍隊が出動し、政治家を逮捕するなどの具体的な行動があったクーデターです。 この国民投票では、2,072万2,602人と認定された有権者のうち、90.32%に当たる1,871万8,115人が投票し、90.53%が賛成票を投じ、8.52%が反対票を投じました。3.1987年9月6日 3回目の国民投票は、1982年憲法の暫定第4条により、かなりの数の政治家は10年または5年間政治活動を禁止されていましたが、この条項は削除するかどうかを問う国民投票でした。 2,573万2,345人の有権者のうちの94.6%の人が投票し、その結果、暫定第4条は削除され、政治活動が禁止されていた政治家は、再び政治活動ができるようになりました。4.1988年9月25日 4回目の国民投票は、憲法127条に規定されている地方選挙を1年前倒しして実施するか否かを問うものでした。(当然ながら、上記3.の政治禁止を解いたことと関係があります) このときの有権者は2,671万8,518人で、88.82%の2,375万873人が投票し、65%に当たる1,292万1,945人が反対したため、憲法改正案は拒否され、早期地方選挙は実施されませんでした。 最後に一言だけ、市況について言及しておきます。 トルコ軍を外国に送るための国会決議が通ったことを受けて、欧米メディアが騒いだ(?)ために、IMKB-100も、トルコ・リラも下落してます。 しかし、これまで書いてきたとおり、すでも「高値圏」であったために、調整のためのきっかけが必要だったのかもしれません。 特にイラク政府は、トルコとの調整に動いており、今後の展開はどうなるか現時点では分かりません(ただし、私の個人的見解はまだ変えていません)。ランキング(ブログ村)に参加しています。皆様のご支持(クリック)をよろしくお願いします。風邪に聞くといわれています!日本人が知らなかったVISTA株オスマンvs.ヨーロッパ―〈トルコの脅威〉とは何だったのか (講談社選書メチエ (237))西アジア史〈2〉イラン・トルコ (新版 世界各国史)中東イスラーム民族史―競合するアラブ、イラン、トルコ (中公新書)オスマン帝国衰亡史トルコ民族の世界史オスマン帝国の解体―文化世界と国民国家