2011/05/25(水)15:07
修学旅行
昨日帰宅するとヘレンがいくつかのお菓子をくれた。「同僚の先生からお土産にもらったの。おすそ分けよ。」へぇ、修学旅行かね。で、どこへ行ったの?
「大阪・京都方面だって。」今年は東京をやめてよそへ行った学校が多かったらしいね。放射能のせいかね。
原発事故は政府・東電の隠していた情報が少しずつ明るみに出てきて、事の重大さに改めて驚かされる。
発災直後には諸外国が在日の自国民を帰国させるなどして話題となった。マスコミも政府・東電の発表を鵜呑みにして事態は直ちに重大な影響を及ぼすほどではない。冷静に行動するようにと再三再四呼びかけていたが、今にして思えばあれは全く根拠が無い、希望的観測に基づくものであった。彼らは計算上は3基の原子炉がいずれもメルトダウンしている公算を認めながらも壊れているかもしれない計器の指示と僅かに測定しえたデータだけから最悪の事態を裏付ける確証がないということだけを論拠に国民へ「冷静に!」と繰り返していたわけだ。
今頃になって福島原発はチェルノヴイリと同程度の汚染状況だとか、広島原爆の数十発分の放射能汚染が存在するとか言われ始めた。
大津波は紛れも無く天災だ。原発の事故さえなければ、修学旅行の目的地を東北にして一日でもボランティアを体験させ、被災地を見せて世の中には人間の力の及ばないこともあること、自然の力の強大さ、サバイバル技術の有用性、避難生活と言う狭隘な社会生活での困難など多くのことを体験学習することができ、同時に東北地方の観光業に何がしかの利をもたらすことで復旧に貢献できたことだろう。しかし、放射能汚染があるところではいくらなんでもそれは受け容れられない選択だろう。
修学旅行もマンネリ化していて本当に意義ある内容になっているのか疑わしい。二十四の瞳の映画のように、貧しい田舎に生まれ育ってそこで一生を終えるというような時代には、修学旅行で外の世界を見るということは大きな刺激であったろうし、そのことだけで有益であっただろう。小豆島から金比羅参りに行くだけで十分意義深かったはずだ。
だが、今は家庭でも気軽に遠出することが珍しくない時代だ。修学旅行で初めて汽車に乗るなどということはない。
こういう時代には修学旅行のありようはもっと中身を厳選する必要があるのではないか。お土産に木刀を買って叱られたり、宿で枕投げをして電灯を壊したりすることもあって良いけれど、学校で身に付けた知識を実地に見聞するという部分にもっと重点をおくべきだと思う。
そういう観点では日教組支配の強いところは平和学習が主流だろう。広島長崎で反核学習が定番か。ノンポリのところはもっぱらテーマパーク見物だろう。東のTDL、西のUSJが代表的。最近は韓国・中国へ足を伸ばす学校もあるという。国際交流を通じて国際感覚を身に着けるというのが謳い文句か。それなりに意義はあると思うが、政治色が強くしかも安直だ。もう少し工夫は無いものだろうか。