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テーマ:精神の世界(125)
カテゴリ:日記
ちょっとした弾みで思い出したキルケゴールの「あれか、これか」。十代の終わり頃からニーチェやヤスパースなどと同時に読んでいたキルケゴール、今となっては「懐かしい」の一語に尽きる。 その「あれか、これか」の最初のところには、「結婚したまえ、君はそれを悔いるだろう。結婚しないでいたまえ、やっぱり君は悔いるだろう。結婚しても、しないでも、何れにしても君は悔いるのだ」というような例を幾つか並べている。 ここでキルケゴールが云わんとしている事柄を、別の形に買い換えてみると、「昨日私は〇〇へ出掛けて、〇〇して遊んだ」と人が語るとき、その「出掛けて遊んだ私」は「本当の私」ではないという話にもなる。ならばその人が「〇〇へ出掛けるのを止めて、出掛けなかった」とすればどうだろうか。勿論「出掛けなかった私」も「本当の私ではない」という話だ。これをキルケゴール風に云えば「その人は〇〇へ出掛けても、出掛けなくても、それを悔いるだろう」という表現になる。勿論「悔いるか悔いないか」という話になれば、悔いると決まったものではないけれど、隠された意味は、やはり「本当の自分か、そうではないか」という話なのである。 それ故にキルケゴールは続けて曰く、「私がスピノザのように、すべてを永遠の相と観るのは、或る特殊の瞬間だけではない。むしろ私こそは常に永遠の相である。多くの者は一を他に結び付けんとするとき、即ち此の矛盾を調和せんとしたとき、自分もやっぱり、それであると思う。しかしこれは誤解である。何故ならば、真の永遠の相は「あれか、これか」の後ろに従うものではなく、その前に行くものであるから。彼らの永遠の相は、だからまた苦痛な時間の連続である。というのは、それは二重の悔いに焼き尽くされるからである、云々」と。 これで示さんとする意味内容も尽くされていると思う。キルケゴールは時々、ヘーゲル批判をするのだが、この文章の中にも、その形跡が見て取れます。弁証法批判です。ここでは、弁証法で解決しようとすれば、二重の悔いに焼き尽くされると云っているのです。 ならばキルケゴールの解決策はどういうものか、というのが、この文章で明かされているように、宗教で開顕される神性覚(真我とか如来蔵などとも云われています)です。これが「本当の自分」だからです。キリスト教だろうと、仏教だろうと、或いは古代ギリシャ時代から延々と続く哲学者たちにとってだろうと、人間に普遍的で只一つの「本当の自分」と云えば、ここに示唆されている「本当の自分」以外では有り得ないのだと、そう確信してみると、ヘーゲルの論書を回想しつつ、ヘーゲルが弁証法を駆使して到達を目論んだ「絶対精神」って、「ありゃ一体何だ」と云わんばかりの有頂天気分を生じ、痛快な思いに浸ったことまでが、今またこうして思い出されるのです。
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最終更新日
2020年06月17日 10時17分08秒
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