私の問題解決の考え方 第12章1

第12章  もう少しで成功だったのに
  -しかし、どんでん返しがー

私の母は長年東京のマンションに一人暮らしをしていましたが、2010年6月に脳梗塞になり、約3週間入院しました。その後、埼玉のわが家のそばの老人施設に移ってから順調に回復していました。そして、そこまでの経過については第9章で説明しました。

本章では、その後の状況について説明します。

翌年2011年には、母が施設での生活にもっと慣れ、心身の状態も、前年6月の入院前に比べ、著しく改善したと思われるようになりました。また、いろいろなことを楽しめるようにもなりました。

しかし、次の年になり、2月初めに、予想もしなかったことに、母が末期の胃がんになっていたことが分かったのでした。そして、2ヶ月も経たないうちに亡くなってしまいました。

その間、母はとても頑張り、私達も必死になって母を助けようとしたのですが、結局うまく行きませんでした。手術をしようとしたのですが、できませんでした。でも、最後近くでも、ガンの痛みも、はっきりした出血もありませんでした。ただ、呼吸するのがとても辛そうでした。

はっきり言えることは、母がガンに立ち向かう決心を自分でして、最後まで頑張り通したことです。

私達としては、ただ残念で、悔しい限りですが、これらの過程を以下振り返ってみましょう。


12.1  母が一人暮らしから脱出できた(第9章の復習)

2010年6月に、東京の自宅で、一人暮らしの母が脳梗塞になりました。救急車で病院へ運ばれ、入院したのですが、幸い、約3週間で退院できました。というか、この病院には長い間いられないと言われたのです。

そのとき、私は、これは、またとない、いい機会だと思いました。

というのは、その一年以上前から、母は、少しずつ自分で判断するのが難しくなり、栄養も足りなくなっていて、介護の助けを借りても、一人暮らしが無理な状態になってきていました。しかし、母は、自分の家(マンション)が大好きで、そこから離れるのはいやだと言い続けていました。一人で勝手気ままに暮らしたいということもありました。また、私達に迷惑をかけたくないという気持もあったでしょう。

ところが、今回の脳梗塞で、右手は不自由になるし、話すのも大変になってしまったのです。これでは、ヘルパーさんの助けを借りても、一人暮らしは困難です。一方、埼玉の私達のところでも、前と同じ環境を用意することは無理でした。

そして、入院して幾日も経たないうちに、主治医のA先生から退院か転院を勧められました。先生やソーシャルワーカーの人と相談すると、リハビリ病院か養護施設を探したらどうかと言われました。

その言葉で、私は、母が転倒(これをもっとも恐れていました)などで動けなくなったときのために、既に、有料老人ホームを見つけていたことを思い出しました。それは私の家のすぐ近くにあり、小さく、家庭的なところで、それまで、母にも勧めていたのですが断られていたのでした。

A先生の見回りのときに、先生の前で母にそのことを言うと、驚いたことに、今度はそこへ移ることに一回で同意してくれました。

実は、2010年の初め、母が東京での一人暮らしを続けるのが大変になったときに、母のための計画を立てました。そのとき、母は、まだ、なんとしても一人で暮らしたいと言っていました。しかし、私としては、今度、もし転んだりして寝込むことになったら、埼玉のわが家のそばの施設に移すつもりでした。

その計画では、まず、埼玉の、わが家のすぐそばの小さい家庭的な施設に入ってもらい、施設での生活に慣れるとともに、心身ともに、一人暮らしのときよりよい状態になってもらおうと考えました。

(頭の状態については、一人暮らしでは刺激が少なすぎるのが、施設に移れば沢山の刺激を受けられると考えました。また、体調についても、一人暮らしだと栄養不足になりがちなので、施設の食事で栄養の改善に期待したのでした。)


そして、埼玉での生活に慣れ、歩けるようになり、何か楽しみを見つけてから、少し前から入居を申し込んであった特別養護老人施設に移るという計画でした。ここに入れれば、万が一、私の方が先に死ぬようなことがあっても経済的になんとかやっていけると判断しました。


そういうことで、私は、この計画を利用して、この機会に母の状態を脳梗塞前よりよい状態に持っていこうと考えました。正に、「転禍為福」で、施設での新しい生活が母の状態を一挙に改善させることを狙いました。

母は、その年(2010年)の秋までは、慣れるのにかなり大変でしたが、少しずつ施設での生活を楽しめるようになりました。


12.2  思ったよりうまく行っている(2011年)

1.施設での生活

私達夫婦は、元旦に、この施設で、母と一緒におせち料理をいただきました。お餅は出ませんでしたが、いろいろな料理に母は喜んで、かなり食べてくれました。

また、前の年の暮れには、嬉しいことに、母は施設での音楽会をとても楽しむことができたのでした。そして、それを、施設長さんにも、自分で伝えることができました。それまで、職員さんとあまり話そうとしなかったのです。必要なこと以外は。

この頃には、施設に対する不平もかなり減っていました。

前の年に施設に入ってから、食事は、車椅子で食堂へ連れて行ってもらい、そこで食べていましたが、そこでの騒音、人の動きや明るさを嫌っていました。ですから、食事が終わるとすぐに自分の部屋に戻っていました。

また、当初は、職員の人達についての不満を、私達家族には、いろいろ言っていました。

それが、2011年になってからは、著しく減りました。その後、さらに、状態の改善が見られるようになりました。5月頃でしたか、施設から病院へ検査に行きました。そのとき、外の空気が吸えて気持がよかったと言ったのでした。咲いている花にも気づいていました。それまでは、外へ行きたいとは一度も言いませんでした。

そのときから、施設の中から外を見て、何を見たとか言うようにもなりました。また、施設の職員さんとも少しずつ話すようになっていました。

7月になって納涼祭が施設でありました。近所の小学校から子供達が来て、和太鼓の演奏をしてくれました。これが物凄い音だったのですが、母は文句も言わずに全部聴いて、その後の模擬店でも、かなりの騒音の中で、焼きそばやソーセージを食べたのでした。そして、美味しいと言いました。

その後、七夕(こちら埼玉では8月)のとき、施設からのお出かけ(花火大会鑑賞)に初めて参加し、大いに楽しんだのです。(車椅子のまま連れていってもらいました。)

その後、東京湾クルーズにまで参加して、東京湾を走る船の上で豪華ディナーまで楽しんできたのです。このときは、私達夫婦も同行し、狭山の施設を午後3時頃出発で、帰ってきたのは11時過ぎでした。私はくたびれ果てていたのですが、母は疲れなかった言っていました。

このように、施設のお出かけには、毎回参加し、楽しむとともに、皆勤だと威張っていました。

この頃には、食堂がうるさいとか、人が動き回って嫌だとかを言わなくなりました。ただ、部屋が明るすぎると、私にはまだ言っていました。こちらも、私は少しでもカーテンを開けるようにして、少しずつですが、明るさにも慣れるように仕向けていました。

実は、この頃、母は大分明るさも嫌がらなくなっていたようなのです。職員の人達の話によると、母は、お茶のときなど食堂に降りてきて(車椅子で連れてきてもらって)、かなり明るいところで座っていられるようになっていました(自分の部屋では、明るすぎるからカーテンを閉めろ、と言っていましたが)。

さらに、一人では座れないなどと言ってはいましたが、私の孫達が来ると、喜んでベッドの縁に一緒に座り、かなりの時間おしゃべりをしていました。

この施設では、毎週2回、機能訓練士の先生に来てもらい、体を動かす訓練もしてもらっていました。だから、右手も動かせるようになり、お箸でご飯も食べていました。そして、栄養も、体全体の動きも、よくなっていました。自分では歩けないと言い、歩く訓練をしようとしませんでしたが、私には、もう歩けそうに見えました。

話もかなりすらすらとできるようになりました。特に、私の娘や孫達が来たときには、どこが悪いのかと思うくらいでした。

このように、この施設に入ったおかげで、相当回復してきたのでした。


2.私達家族のやったこと

一方、私達家族も母の回復のためにいろいろ努力をしました。

初めの年(2010年)はほぼ毎日誰かが様子を見に行き、話をするようにしました。今年になっても、一日おきには行っていました。

なお、私は、母が今の施設に入ってからは、母を順調に回復させることに本気で取り組むことにしました。母が一人で暮らしている間は、発生した問題は「母の問題」でした。私はその解決を助けていました。今は「私の問題」にもなりました。私が計画を立てたのですから、私が責任を持たねばなりません。

つまり、前は、母を助けているだけ、母が私を必要とすると言ったときだけが私の出番だと捉えていました。

しかし、今度は私の問題なのですから、母のための行動は、母が言ったことだけではなく、むしろ、目標達成のために私が必要だと判断する行動になりました。

ですから、母が頼んだことをやらないこともありましたし、母が頼まないこともいろいろやりました。ということで、母と私では意見が合わず、しばしば摩擦が生じました。

ただ、施設のやることの邪魔にならなければ、母自身のための希望には直ちに対応していました。

このとき、私が気をつけていたことは、

1)脳梗塞を再発させないこと。母は塩辛いものが好きなので、塩分をできるだけ控えさせようとした。

2)自分でできることはなるべく自分でやらせる。自分でできるのに私にやらせようとしたときはやらない。また、私の考えに合わないことは、言われても、原則としてやらない。

3)母が自分で歩けるようにしたい。

の3点です。

まず、1)について、母は、施設の食事では塩分が足りないので塩気のあるものを食べたいと言いました。初めはポテトチップスなどを少し用意するようにしたのですが、食べ過ぎてしまうのです。ですから、始終買ってこないようにしました。そうすると、母がもっと欲しいと言い、しばしば言い争いになりました。

そこで、私は基本的には塩分の多いものは買わないことにし、妻や娘達がお土産に少しずつ持ってくるようにしました。

次に、2)に関連して、私の孫達にお菓子などを送ってくれと言う回数が多すぎても、送るものによっても、私はダメだと言い、言うことを聞かないことも7ありました。そして、どうしても送りたいなら、自分で電話して頼みなさいと言いました(しかし、自分で電話して頼もうとはしませんでしたが)。

三番目の歩くことについては、なぜか、母はこの施設にはリハビリ室がないから練習ができないと初めから言い張って、歩けないと言い続けてきました。私は、ことあるたびに、歩く練習をするように勧めたのですが、駄目でした。しかし、車椅子からベッドへ移るときの体の動きなどを見ると、やれば歩けるのではないかと感じていました。

しかし、リハビリをしなかったわけではなく、訓練士の先生に勧められた体操を寝たままで毎日やっていました。

(後日談ですが、次の年、ガンの手術で入院したとき、私は、そこのリハビリの先生にこのことを話し、機会があったら歩けるかどうか試してくださいと頼みました。そうしたら、つかまってなら、ちゃんと歩けたのでした!)

私が母に対してはかなり厳しく接するので、母は反抗して、私には機嫌が悪い態度を示すことがしばしばありました。そして、お医者さんやヘルパーさん達には私と喧嘩しているなど言っていました。

私も、それを隠すことはせず、なるべく大勢の人達と母の状態について始終話すように心がけました。

また、一つには、嫌われ役になることもいいかなと思っていました。母にとっていい刺激になるのです。私と喧嘩をするためには、怒り、緊張し、頭を使わなければならず、話もしなければなりません。

実際に、今年になってからは、頭の働きも、会話能力もかなり上達していました。特に、娘達が来たときには、長い間おしゃべりを楽しんでいました。

また、私は、職員さんの名前も母に覚えさせようとしました。ヘルパーさんはかなり入れ替わりが激しかったので、私でも名前を覚えるのが大変でしたが、これが母の頭の訓練には最適でした。

さらに、母と話をするときも、聞き取れないときには、必ず聞き返して、分かるように言ってもらうようにしました。

母は自分の弟達に会いたかったらしいので、電話をしたらと勧めたのですが、しませんでした。私に何か弟達に品物を送れと言いましたが、私は、そんなことしたら、来てくれと言っているようではないかと言い、拒否しました。どうしても送りたいなら、自分で電話で注文して送ったらと言いました。それより、まず弟達に電話をしてみたらと勧めたのですが、話をするのは嫌だと母は言い続けました。私とどうすべきかもめているうちに、神奈川から叔父2人が来てしまいました。

そのとき、私は東北へ行っていて、埼玉(家と施設がある)には、いなかったのですが、母はとても喜んで、かなり長くしゃべったそうです。


このように、施設に入ってから、母は、心身ともに、順調に回復して、施設での生活も楽しめるようになりました。これは、私には驚くべきことで、施設の人達にも、母にも感謝してしまいました。

言語障害も改善し、身体の動きもよくなり、もう少しで歩けそうだと感じられました。

さらに、2年近く前に申し込んでおいた特別養護老人施設からも入居許可の内定がきて(2011年12月)、その予定の、2012年4-6月までに歩けるようになれば、ほほ目標達成に近くなります。

2014.7.15完 (12.1-.2)


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