記者クラブ発ニュース毎日のように、自ら命を断つ人の記事が新聞の社会面に掲載される。 きょうの夕刊にも・・・・。 ぼくが利用する駅から東京方面へ四つ目の駅。 その駅近くの踏み切りで、きのうの午後7時50分ころ。 高校3年、17才の少年が普通電車にはねられ、死亡した。 記事によれば、自殺とは断定できない。 しかし、見出しを除いて全22行の、この小さな記事。 その中で、少年が命を失うことになったその原因をほのめかす言葉は、 「自殺と事故の両面」の8文字だけ。 それに、「警察が調べている」と、当然の言葉が添えられているだけ。 この、少年の死の扱い方に比べ、列車ダイヤの乱れを知らせる言葉はこと細かい。 ・ 「午後9時20分運転を再開」 したが、 ・ 「上下10本が運休」 し、 ・ 「50本に最大約2時間半の遅れ」 が出て、 ・ 「九州新幹線“つばめ65号”が約30分」 遅れ、 ・ 「乗客約1万5千人」 が影響を受けた。 この、列車ダイヤの乱れに関する部分は、22行の記事、その5割以上を占めている。 ぼくら読者は、こんな“情報”が欲しいのだろうか? 昨夜8時ころの事故。そして、既に復旧した列車ダイヤの乱れ。 そんな“情報”を今ごろ知らされてもなんの役にも立たないし、 限られた新聞紙面を削って掲載すべき影響を読者に与えることでもない。 奇妙なのは、起きたのは昨夜、それも、午後10時前には復旧している。 そんな事故を、翌日の夕刊に掲載するという、この情報伝達の遅さだ。 新米記者が、警察の発表をそのまま丸写しで記事にした。 今朝の朝刊は載せるべき記事で満杯だったので、デスクが夕刊にまわした。 そんな感じか。 この、なんのへんてつもない記事に、 「亡くなった少年は進学問題で悩んでいた」といった、 警察発表にない、独自の情報が加味されていたらどうだろう。 メディア仲間からは、“抜け駆け”を指摘されるかもしれないし、 少年の家族には、さらなる悲しみと苦痛を与え、 世論からは、メディアの圧力を非難されるかもしれない。 それでも、事件・事故を記事として掲載する限りは、 そのメディア独自の取材および視点がなければ意味がないんじゃないか? 現代の情報伝達システムにあって、異常なほどに遅れて届けられた少年の死は、 発表されたコメントのまま、冷たく、静かに紙面を埋めただけに終わった。 発表されたことをそのまま掲載する。 新聞は、回覧板ではないはずだ。 「警察その他お上組織の記者発表を、そのまま報道」 こんな流れに関連して、最近、テレビのニュースで気になる表現がある。 --○×容疑者が「△△」と言っていることがわかりました。 なるモノ。 堂々と「わかりました」と言ってはいるが、これはどういう意味なのか? 局の記者が独自に取材をしたから、明らかになったわけじゃないだろう。 警察の記者クラブで発表された、それをそのまま流しているだけじゃないのか? それならばはっきりと「警察の発表によれば」と言うべきだ。 この奇妙な表現に限らず、テレビのニュースには、映像も、コメントも、 その出所が明らかでないモノが多すぎる。 警察や役所関係、裁判所その他、記者クラブでの発表を基にしたニュースは、 その事実をきちんとぼくら視聴者に知らせるべきだ。 記者クラブで発表されたというその事実だけで、 その内容がどのような性格のものかを判断する材料にもなる。 情報の出所はどこなのか? それを知ることは、情報の受け手であるぼくら視聴者が持つ権利だと思うのだけど。 海外からのニュースでも同じ。 特派員がいないところから、その局が独自に取材したニュースが届くはずがない。 だが、「私どもは現地に記者やカメラマンを派遣していません」的な、 正直な、しかし、当然のお知らせを聞いたことがない。 たとえ流すニュースが提携している海外メディアの映像やコメントであり、 それを自局のものとして利用することになんら問題はなくても、 視聴者は“提携”などという企業活動は知る由もないのだから、 その旨を明確にすることは不可欠だと思う。 新聞であれ、テレビであれ、その情報が受け手の元に届くまでには、 既に何回もふるいにかけられている。 どんな関所を通ってきたのか。 情報の出所とその流れを知れば、より真実に近づける。 そんな気がする。 ジャンル別一覧
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