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テーマ:鬱病(2269)
カテゴリ:躁鬱病とたたかう
恥ずかしい話だが、本来ならばカミサンと共同の部屋だったのが、
いつの間にやら、自分の私物が増えてしまって、ほぼ俺の部屋になってしまった。 カミサンは、このモノだらけの圧迫感だけで、中に入れないのだと言う。 ここ2、3年の間に本当にモノが増えた。 病気のせいもあるかも知れない。自分は躁鬱病だからだ。 それに元々物欲があるほうであったので、 欲しいものがあると買わずには居られない性格であった。 過去の自分を知るものは、それ故になんとも思わない。 だが、自分とて買うばかりではない。 部屋にあるものを売って、そのお金でモノを買ったりするのだ。 まぁ、ほぼ自転車操業みたいなものであるが・・・・ 閑話休題。 最近、モノの価値というのが分からない。 自分が大事にしていた本を売っても、 新古書店などに売ると、10円になるかどうかの値段でたたかれたりする。 ジョージ秋山の漫画、「浮浪雲」を1巻~50巻まで売りに出そうとしたら、 数冊しか買い取ってくれないという。残りは売り物にならないそうだ。 あまりに悔しいので、ネットオークションに出したら、8千円だか9千円くらいで売れた。 新古書店の数十倍いや、数百倍の値段である。 こういう例だと、とてもうれしい。自分の希望通りの値段と、相手の希望通りの値段で売れる。 つまり価値を共有して取引が成功するからだ。 しかし、たとえネットオークションだとしても、自分の思いと、入札する側との思いが異なるケースもある。 古いノートPCであるが、割と人気のあるものをオークションで以前手に入れていた。 それ専用のCDドライブを買い、充電池も新しいものを買った。 でも、しばらく使わなかった。冷静に考えると、やはり使いどころが無い。 商品はとてもよいもので、通な人はハードディスクを自分で換装したり、クロックアップ(速度向上)させたり、メモリを増やしたりしている。 だが、最近はそんな余裕も無かったので、売ることにした。 実際かかったお金は2万5千円以上。5千円からスタートした。それでもなかなか入札しない。 今日の締め切りになって、ぼちぼちあがり始め、最後の落札値は14000円。 自分がノートPCを落札したときよりも安くなってしまった。しかも色々なオプション付で。 本当にモノの価値って難しい。どれだけ自分が思っていても、諸々の要素が絡み合い、思っても居ない値段がつく。時には安く、時には高く。 でも、そういう下世話じみた問題を超えて、モノの思い出などがある。 今日、久しぶりに漫画喫茶に行って、ある漫画を読んだ。 金魚屋古書店出納帳(上巻) この漫画は一話完結ものであるが、古いレトロな漫画を扱う金魚屋を舞台として、色々な人たちのエピソードが語られるというお話である。そこには、漫画をこよなく愛する人や、書店の仮店長、アルバイト店員を交えて、暖かい空気に包まれている。 その漫画を読むと、ふとそこに登場した漫画が読みたくなってしまうのが不思議である。 漫画喫茶には1時間くらいしか居なかったので、1冊しか読めなかった。 まだ、下巻もあるし、別シリーズの金魚屋古書店もあるため、興味は尽きない。 --------------------------------------------------------------------------------------- モノの価値と同じように人間の価値、自分の価値ってどうやって決められるのだろうか。 仕事の評価か?家庭の評価か?そう考えると、それは人生のうちの一側面でしかない気がする。 そして同じ仕事の評価にしても、人によって捕らえ方が違う。例えば苦労して仕事をやり遂げたとする。そういう現状を知る近しい上司ならば、良い評価を得るかも知れないが、 もっと上の役員、取締役になったら、残業が多すぎるからこいつは仕事が出来ないと 評価されてしまうかも知れない。そういう評価は絶対的ではなく、相対的なのだ。 少なくとも他人の評価は相対的。これは間違いない。 だけど、自分が下す評価はどうだろうか?果たして同じなのだろうか? やっぱり場所や条件、体調などによって評価が影響されないだろうか? 自分を信じてっていうけれど、自分ってのも絶えず揺れる存在ではないのか? そこまで考えていくと、自分の地盤というのが崩れていってしまう。 以前、そういうことを考えてしまって、本当にやばい時期があった。 それからは、考えないようにした。 これ以上、自分を壊さないように・・・・ みなさんはどうですか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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