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エゼキエル書46章を読んで思うこと。それは、「エゼキエルが見た幻と、イスラエルの君たる者の礼拝」のこと。
これらは、患難時代の後の、千年王国と、新天新地における礼拝のことです。 エゼキエルが見た幻は、旧約聖書の用語と描写が入りますので、昔のものの様に思いますが、これらは千年王国と新天新地(聖書の終末期)を示す、崇高な啓示です。 主なる神は、こう言われる、内庭にある東向きの門は、働きをする六日の間は閉じ、安息日にはこれを開き、またついたちにはこれを開け。君たる者は、外から門の廊をとおってはいり、門の柱のかたわらに立て。そのとき祭司たちは、燔祭と酬恩祭とをささげ、彼は門の敷居で、礼拝して出て行くのである。しかし門は夕暮まで閉じてはならない。国の民は安息日と、ついたちとに、その門の入口で主の前に礼拝をせよ。(エゼキエル書46:1〜3) 終末期(千年王国と新天新地)における礼拝の啓示は、エゼキエル書だけでなく、詩篇にも豊かに記されています。 これらは、詩篇における終末期の礼拝の啓示、イスラエルの君たる者の礼拝風景の啓示です。そこには、賛美と喜びが、満ち溢れています。 もろもろの民よ、手をうち、喜びの声をあげ、神にむかって叫べ。いと高き主は恐るべく、全地をしろしめす大いなる王だからである。主はもろもろの民をわれらに従わせ、もろもろの国をわれらの足の下に従わせられた。主はその愛されたヤコブの誇をわれらの嗣業として、われらのために選ばれた。(詩篇47:1〜4) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021/10/28 03:37:26 AM
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