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エゼキエル書47章を読んで思うこと。それは、「エゼキエルが見た幻。エルサレムの聖所から流れる、生ける水の川」のこと。
そして彼はわたしを、宮の戸口に帰らせた。見よ、水の宮の敷居の下から、東の方へ流れていた。宮は東に面し、その水は、下から出て、祭壇の南にある、宮の敷居の南の端から、流れ下っていた。(エゼキエル書47:1) エゼキエル書の終盤は、「新しいエルサレム神殿(第四神殿)」の幻が、40章〜48章まで続きます。ラスト2章です。これは終末期、千年王国後の「新天新地」に関することです。今日は、その新天新地に流れる生ける水の川、全てを生かす聖霊の川を、他の聖書箇所から味わいましょう。 荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。その時、目しいの目は開かれ、耳しいの耳はあけられる。その時、足なえは、しかのように飛び走り、おしの舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり、山犬の伏したすみかは、葦、よしの茂りあう所となる。そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、愚かなる者はそこに迷い入ることはない。(イザヤ書35:1〜8) 「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。野の獣はわたしをあがめ、山犬および、だちょうもわたしをあがめる。わたしが荒野に水をいだし、さばくに川を流れさせて、わたしの選んだ民に飲ませるからだ。」(イザヤ書43:19〜20) 「しかし、わがしもべヤコブよ、わたしが選んだイスラエルよ、いま聞け。あなたを造り、あなたを胎内に形造り、あなたを助ける主はこう言われる、『わがしもべヤコブよ、わたしが選んだエシュルンよ、恐れるな。わたしは、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れをそそぎ、わが霊をあなたの子らにそそぎ、わが恵みをあなたの子孫に与えるからである。こうして、彼らは水の中の草のように、流れのほとりの柳のように、生え育つ。』」(イザヤ書44:1〜4) 彼はわたしに言った、「この水は東の境に流れて行き、アラバに落ち下り、その水が、よどんだ海にはいると、それは清くなる。おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きている。すなどる者が、海のかたわらに立ち、エンゲデからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。ただし、その沢と沼とは清められないで、塩地のままで残る。川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。(エゼキエル書47:8〜12) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021/10/29 01:50:20 AM
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