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報徳記巻之五【3】細川侯登坂先生道を論ず

報徳記

巻之五【3】細川侯登坂先生至当の道を論ず

細川侯先生の良法を以て両領分(りやうりやうぶん)旧来の廃地(はいち)を挙げ、仁術を布(し)き民心感動して惰風(だふう)一変(ぺん)せり。
先生再び沈思黙慮し、十二万余金の負債償却の方法を立て、此の道を行ふこと数年にして借債の減少半(なかば)に過ぎ、非常の艱難を免れ、永安の道に至らんとし、遠近(ゑんきん)其の善政を称(しやう)す。
時に天保某(それ)年幕府命じ玉ふに大番頭(おほばんがしら)を以てす。
細川侯艱難の為に奉仕の道を欠くこと数十年にして此の命を受け、大いに本意を遂ぐるといへども、登坂(とはん)の費用一藩の手当(てあて)其の道を得ず。
之を勤めんとする時は領邑(いふ)興復の業(げふ)を成すことあたはず。
勤めざるときは公務を廃(はい)するの罪あり。
大いに心を労(らう)し、中村を呼びて両全(りやうぜん)の道を問ふ。
中村対(こた)へて曰く、
公命廃(はい)すべからず。
領邑(いふ)再興の道も亦諸侯の職分也、豈(あに)之を廃(はい)す可(べ)けんや。
已(や)む事を得ざれば二つながら存(ぞん)して、登坂(とはん)の費用を省き、諸事質素を主とし勤め玉(たま)ふべし。
臣猶此の条(でう)を以て二宮に問ひ、良案を得ば言上せんと云ふ。

先生に至りて両全(りやうぜん)の道を問ひ、且(かつ)節倹(せつけん)を尽(つく)し勤務並に領分再興の道共に存せんとするの意を陳す。
先生色を正しくして曰く、
嗚呼(あゝ)中村の過ち大なりと云うべし。
殆んど大事を過(あやま)り、君(きみ)をして非義に陥らしむ危(あやふ)いかな。

中村曰く、
某(それがし)両道(りやうだう)を全くせんとす。
然るに危道を踏(ふ)み我君をして非義に陥らしむるとは何ぞや。

先生愀然(しうぜん)として曰く、
子(し)未だ君臣の大義を解せざる歟(か)。
夫れ臣として君に事(つか)ふるに身命をナゲウつもの古今然(しか)り。
況(いは)んや一家の興廃(こうはい)素(もと)より顧みる所にあらず。
艱難の為に役義(やくぎ)の命を下し玉はず。
多年奉仕の道を欠くものは是幕府の寛仁(くわんじん)にあらずや。
然して子(し)の君臣共に本意を失ふこと之に過ぐべからず。
今君仁政を領中に下し負債の半(なかば)を償ひ、累年の艱難を免(まぬが)るゝに近し。
此の時に当(あた)りて幕命を蒙(かう)むり玉ふもの君臣の本意(ほんい)にして、心力(しんりょく)を尽(つく)し、其の命令を奉じ忠義を尽(つく)さんことを欲すべし。
然るに領中再復の事を顧み、公務の用財を減ぜん事を計る。
是私事の為(ため)に公務を軽(かろ)んずるにあらずして何ぞや。
此の命を蒙(かうむ)らざる時は、領中興復の道を行ひ、天民を安んずるを以て諸侯の道と云ふべし。
一旦幕府其の職分を命じ玉ふに至りては、天下何ものか是より重きものあらんや。
此の時に当(あた)れば国民(こくみん)撫育(ぶいく)領分再興の事は私事なり。
速かに仕法を止(や)め百姓撫育の用財を以て勤務の用となし、足らざる時は領民に令(れい)して用金を出さしむべし。
猶足らずんば平生(へいぜい)一家艱難の為にだも他の財を借れり。
公務の為に財を借るとも何ぞ之を不可とせん。
此の如くにして登坂(とはん)の用具(ようぐ)一物(もつ)も欠(か)くべからず、用財約(やく)にすべからず。
諸侯にして其の職を勤む、武備全からざるは忠にあらず。
仮令(たとひ)領邑(いふ)之が為に衰弊すといへども顧みる事勿(なか)れ。
平生(へいぜい)仁政を行ひ下民(かみん)を安んじ、節倹(せつけん)を尽(つく)し其の分度を守るも、天下の命あらば身を棄て家を捨て、百万(まん)の敵といへども一歩も退かず之に当(あた)り、苦戦を尽(つく)し忠孝の大道を踏(ふ)まんが為にあらずや。
治平(ぢへい)の奉仕乱世(らんせい)の奉仕と異るが如くなりといへども、豈(あに)忠義の心に於て一毛の別あらんや。
大番頭(おほばんがしら)は諸旗本の長たり登坂(とはん)何の為ぞや。
大坂の城を守り、万一変(へん)あらば京都を警衛(けいゑい)し奉り非常の奉仕を為さんが為(ため)なり。
然るに今其の用財を減じ家政の一助を立てんとせば、大義を失ひ私の為に公務を欠くの大過(たいくわ)に陥らん。
豈(あに)之を忠といはん。
何ぞ之を義といはんや。
子(し)大義を知らずして殆んど君を非義の地に陥らしめんとす、危い哉(かな)。

中村憮然(ぶぜん)として自失し、大息(たいそく)して曰く、
不肖(ふせう)殆んど大事を過まらんとす。
先生の教へなくんば何を以てか此の大義を知ることを得んや。
先生曰く、
子(し)速かに我が言を以て子の君に告げ、仕法を畳みて一途(と)の忠勤を尽すべし、若し之が為に領邑(いふ)再び衰廃せば、我又時を待ちて之を興復せん。
領邑(いふ)を興復する事のみ仕法にはあらず。
其の時に応じて当然(たうぜん)の道を行ふこと是即ち仕法の本体(ほんたい)なり 
と教ふ。
中村、先生の言を以て細川侯に言上す。
君其の正大の言を感じ、意を決し用意其の相当(そうたう)を得て登坂(とはん)し力を尽(つく)して奉仕せりと云ふ。

高慶曰く
谷田部侯先生に問ふて政を為す
恵を布き沢を施すを勤め、積年の廃を挙ぐ
英明人過る者に非んば、豈に能く此の如くならんや。
中村小しく才有而して至誠之を以する能はず、
先生之に教るに丁寧反復至らざる所無し。
若し中村をして己を舎て、而して先生の教に終始せして則ち国の隆興指を僂して俟つ可き也。
惜かな、其志得るに及で、往々私知を用ゐ、復た先生の教に従はず。
是に於てか事錯忤多く、人心附かず其功を奏する能はず。
蓋し亦た自ら取る也已(のみ)。


報徳記  巻之五
 【3】細川侯登坂先生至当の道を論ず

 細川侯は、先生の良法で両領分(谷田部・茂木)の旧来の廃地を開拓し、仁の方法を広くゆきわたらせて民の心が感動して怠惰な風俗は一変した。先生は再び沈黙して深く考え、12万余両の借金の償却の方法を立て、この道を行うことによって数年で借債が半分以上減少し、非常の災難や困難を免れることができ、永安の道に至ろうとし、遠く近くの人々はその善政を賞賛した。
 時あたかも天保のある年(天保9年(1838))、幕府は細川侯に大番頭を命じられた。細川侯は災難や困難のために国家のために数十年尽くす道を欠いていたがこの命を受けて、大変に本来の望みを遂げたが、大阪に登る費用が一藩で手当する方法がなかった。これを勤めようとする時は領村の復興事業をなすことができない。勤めないときは公務を廃してしまう罪がある。大変心労し、中村を呼んで両全の道を問うた。中村はこう答えた。
「幕府の命令を廃することはできません。領村の再興の道もまた諸侯の職分です。どうしてこれを廃してよいでしょうか。やむを得なければ2つとも存して、大阪に登る費用を省いて、諸事質素を主として勤められたらよいでしょう。臣はなおこの件を二宮に問い、良案が得られるならば申し上げましょう。」と答え、先生のもとに来て2つながら全うする道を問い、かつ節倹を尽して勤務並びに領分再興の道がともに存続させようとする趣旨を述べた。先生は顔色を正されて言われた。
「ああ、中村の過ちは大きいというべきだ。ほとんど大事を過って、君を非義に陥らしめる、なんと危いことか。」
中村は言った。「私は、2つの道を全うしようとしたのです。そうであるのに危道を踏んで私の君を非義に陥らしめるとはどういうことでしょうか。」
 先生は愁いに沈んで言われた。
「あなたはまだ君臣の大義を理解しないのか。そもそも臣として君につかえるのに身命をなげうつ、これは古今同じである。ましてや一家の興廃は、もとから顧みる所ではない。艱難の為に役儀の命令を下すことができないからと多年奉仕する道を欠いて済まされたのは幕府の寛仁ではないか。そしてあなた方君臣が共に本意を失うことはこれに過ぎることはない。今、君が仁政を領中に行い負債のなかばを償い、まもなく累年の艱難を免れるほどとなった。この時に当って幕府の命令をこうむることは君臣の本来の望みであり、真心から力を尽して、その命令をうけたまわって忠義を尽そうと欲するべきだ。そうであるのに領内の再復の事を顧みて、公務の用財を減らす事を計画する。これは私事の為に公務を軽んずるといわないで何というべきか。この命令を蒙らない時は、領内の復興の道を行い、天下の民を安らかにすることを諸侯の道であるというべきである。ひとたび幕府がその職分を命じられたら、天下において何ものがこれより重いものがあろうか。この時に当っては国民を恵み育て、領分を再興する事は私事である。すぐに仕法を止めて百姓を恵み育てる資金を勤務の費用とし、足らない時は領民に命令して必要な資金を出させるべきである。なお足らなければふだん一家艱難の為でさえ他から借金していた。公務の為に財を借りてどうしてこれをだめとしよう。このようにして大阪に登る用具を一物も欠いてはならない。費用道具を倹約してはならない。諸侯であってその職務を勤める、武器の備えが全うしないものは忠ではない。たとえ領村がこのために衰弊しても顧みてはならない。ふだん仁政を行ってしもじもの民を安らかにし、節倹を尽してその分度を守っても、天下の命令があれば身を棄て家を捨て、百万の敵であっても一歩も退かないでこれに当り、苦戦を尽し忠孝の大道を踏ませるためではないか。太平の奉仕は乱世の奉仕と異なるようであるが、どうして忠義の心においてわずかな違いがあろうか。大番頭は諸旗本の長である。大阪に登るのは何のためか。大坂の城を守って、万一変があれば京都を警衛して非常の奉仕をするためである。そうであるのに今その費用財産を減らして家政の一助を立てようとするならば、大義を失い私のために公務を欠くという大過に陥いるであろう。どうしてこれを忠といおう。どうしてこれを義といおうか。あなたは大義を知らないでほとんど君を非義の地に陥らせようとしている。危いかな。」
中村は事の意外さに驚いて我を忘れてぼうぜんとし、大きなため息をして言った。
「私は愚かでほとんど大事を過(あやま)ろうとしました。先生の教えがなければどうしてこの大義を知ることができたでしょうか。」先生は言われた。
「あなたはすぐに私の言葉をあなたの君に告げて、仕法を畳んで一途に忠勤を尽しなさい。もしこのために領村が再び衰廃したら、私がまた時を待ってこれを復興しよう。領村を復興する事だけが仕法ではない。その時に応じて当然の道を行うこと、これが仕法の本体である。」と教えられた。
中村は、先生の言葉を細川侯に言上した。君はその正大の言葉に感動し、意を決して用意し、ふさわしく整えて大阪に登り力を尽して奉仕したという。

(「補注報徳記」佐々井典比古)高慶曰く
谷田部侯は先生の指導によって政治をとり、広く恵沢を施して積年の衰廃を挙げ興した。英明ひとに過ぎる者でなければ、よくなし得ないところである。中村は小才があって、至誠をもって貫くことができなかった。先生はこれを教えること丁寧反復、至れり尽せりであった。中村が我意を捨てて終始先生の教えに従ったならば、国の隆興は指を折り数えて待つことができたであろう。惜しいことに、その志を得るに及んで、往々私知を用い、先生の教えに従おうとしなかった。ここにおいて、することに錯誤が多く人心が附かず、ついにその功を奏することができなかった。けだしみずから招いたものにほかならない。


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