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報徳記巻之七【10】先生真岡の陣屋に至る

報徳記  巻之七 

【10】先生県令の属吏に命ぜられ野州真岡の陣屋に至る

時に天保十四癸(みづのと)卯年(うとし)七月、先生奥州(あうしう)小名浜(をなはま)野州真岡同州東郷三県令(けんれい)の属吏(ぞくり)に命ぜられ、野州真岡陣屋に至り衆属吏(ぞくり)と共に群居せり。
命を受くるの日に意(おも)へらく、
県令(けんれい)は郡村を治め、民を安撫(あんぶ)するの官なり。
之が属(ぞく)たらば旧来辛苦する所の仕法を以て、郡村に及ぼし万民(ばんみん)を安(やす)んずることを得ば、道の行はれんこと難(かた)からず
 と。
真岡に至るに及びて仕法は新法にして、古来の規則に符合(ふがふ)せず、 
県令(けんれい)以下の決断を以て行ふことあたはずとして、空しく歳月を送れり。
先生大いに之を憂ふといへども如何(いかに)ともすべからず。
然るに某月(ぼうげつ)に至り江都(かうと)に出(い)づべきの命あり。
至れば則ち命じて曰く、
日光神廟(しんべう)の祭田多年荒蕪(くわうぶ)となり、下民(かみん)も亦(また)甚だ窮せり。
速かに彼の地に至り見分し、之を再興し諸民を安撫(あんぶ)するの策を建白せよと。
先生命を受け直(たゞ)ちに言上(ごんじやう)して曰く、
夫(そ)れ天下の荒蕪地(くわうぶち)大同小異なりといへども、何ぞ再復の道に於(おい)て別あらん。
且(かつ)人民の弊風(へいふう)に漂(たゞよ)ひ貧苦に陥るもの、其(そ)の情実に至りては何(いづ)れの国といへども異なることあるべからず。
其(そ)の地に臨みて見分(けんぶん)せざれば知り難(がた)き者に非ず。
今斯(こゝ)に在つて其の再復の策を献ぜば奈何(いかん)。

官曰く、
理は方(まさ)に然らんか。
然りといへども其の地に臨みて其の実事(じつじ)を述ぶるものは常則なり。
故に一たび見分を遂(と)げて然る後言上せよと。
先生曰く、
敢(あへ)て命(めい)に差(たが)ふにあらず、速かに至らん而已(のみ)。
然れども臣の言(げん)謂(いは)れなきにあらず。
彼の地に至りて再興の道を論ぜば、彼地に就(つい)て其の理を言はん。
然る時は陳述する所僅かに彼の地の事に止(とどま)りて広く再復の道を該(がい)することあたはず。
今其の地を見ずして再復の道を全備(ぜんび)せば、天下の廃地挙ぐべからざるの地なく、天下の民窮苦を除くべからざるものなからん。
然らば一たび其の策を献じて其の理斯(こゝ)に尽き再三の命を煩(わずら)はさず亦(また)可ならずや。
前年下総国(しもうさのくに)大生郷村(おほふがう)再復の道を奏(そう)す。
其の理に至りては万国といへども再興の道此の他(ほか)に出でず。
然れども一邑(いふ)の見分を以て言上せり。
故に一邑(いふ)の事に止(とどま)り、再び日光の邑々(むらむら)再盛の事を命じ玉ふ。
後年又他の廃地を挙げ、貧民を恵み玉ふ時は其の法則となるべからず。
今臣の意中を尽し、民間再盛安撫(あんぶ)の道を漏(もら)さずして奏(そう)し、若し不可ならば、仮令(たとひ)其の地に臨みて後言上するとも何の益かあらん。
若し可にして用うべきの道ならば、四海の地皆悉(ことごと)く同じからん。
是を以て其の地を見ずして再興成就の道を奏(そう)せんことを請ふのみ  
と。
是に於(おい)て官之を許可せり。 

先生門下を集会し諭(さと)して曰く、
夫(そ)れ日光の土地たるや神君鎭坐(ちんざ)の地にして、村々は皆其の祭田(さいでん)なり。
実に此の地を再復し此の民を安んずるの策を命じ玉ふこと豈(あに)仕法の幸(さひはひ)にあらずや。
是の故に我が積年丹誠するところの仕法悉(ことごと)く筆記し之を奏(そう)せん。
此の書一度(たび)全備する時は、仮令(たとひ)道行はれずといふとも、仕法の仕法たる所以(ゆゑん)は万世(ばんせい)に及て腐朽すべからず。
孔子一世(せい)道を行ふことあたはざるも、其の書(しよ)永世に朽ちずして道益々(ますます)明らかなり。
二三子(し)夫れ之を勉(つと)めよ 
と。
是(こゝ)に於(おい)て前々依頼の諸侯領邑(いふ)の事を辞し来客(らいきやく)を止(と)め、夜を以て日に継ぎ、僅々(きんきん)たる短文を筆(ひつ)するも尚(なほ)数日(すうじつ)の思慮を尽し、数十度の添刪(てんさく)を加へて然(しか)る後可なりとす。
実に千辛(しん)万苦(ばんく)の力を尽し、肺肝を砕きたること誠心限りなしと謂(い)ふべし。
斯(かく)の如く研究の労を尽すこと三年にして猶(なほ)未だ稿(かう)を脱せず。
門下往往(わうわう)事の後(おく)れんことを恐れ、先生に告ぐると雖も、研究の足らざるを憂ひて後(おく)れんことを憂へず。
時(とき)に真岡の県令(けんれい)鈴木某(ぼう)公事に由(よ)つて江都(かうと)に至れり。
先生に告げて曰く、
早く書を奏(そう)すべし と。
先生曰く、
未だ全備すること能はず。
是に於て県令(けんれい)官に聞(ぶん)す。
官命じて曰く、
全備せずと雖も可也。
疾(と)く出(い)だすべしと。
先生已(や)むを得ず徹夜寝(いね)ずして心力(しんりよく)を労し、終(つひ)に数十巻となして之を官府(くわんふ)に奏(そう)せり。
此の時に当りては初め、命じ玉ふ時の閣老以下已(すで)に転勤あり。
是の故に又開業(かいげふ)の命下らずして徒(いたづら)に歳月を消(せう)す。
門人其の他に至るまで、実業(じつげふ)の行はれざることを歎息せり。
時(とき)に諸侯の邦内(ほうない)再興の指揮を廃すること既に三年、是(これ)を以て小田原領を始めとして往々(わうわう)中廃に至るもの少なからず。
後仕法依頼の輩(はい)日光再復の書(しよ)に法(のつと)り、以て都邑(といふ)を再興せんことを請ふ。
先生曰く、
官に奏(そう)して未だ可否の命を得ず、
私(ひそか)に之を伝ふること能はず 
と。
是(こゝ)に於て此の旨を以て官に請ふ。
官之を許可す。
是(これ)に由つて漸々(ぜんぜん)道を行ふことを得たり。



報徳記  巻の7 
 【10】先生県令の属吏に命ぜられ野州真岡の陣屋に至る

 時に天保14年(1843)7月、先生は奥州小名浜(福島県いわき市)・野州真岡・同州東郷(ひがしごう)3つの代官配下の役人として命ぜられ、野州真岡陣屋に行って多くの役人とともに群居した。命令を受けた日に思われたのは、「代官は郡村を治め、民を安らかに恵むという役職である。この配下であれば旧来辛苦する所の仕法で、郡村に及ぼして万民を安らかにすることができれば、道が行われることも難しくない」と。真岡に行くに及んで仕法は新法であり、古来の規則に符合しない、代官以下の決断で行うことはできないということで、空しく歳月を送った。先生は非常にこれを憂えられたがどうにもすることができなかった。すると弘化元年4月になって江戸に出るべき命令があった。行くと次のように命じられた。
「日光神廟の祭田が多年荒地となって、民もまた大変困窮している。すぐにかの地に行って調査し、これを再興し諸民を安らかに恵む方策を建白せよ」と。
先生は命令を受けてすぐに次のように申し上げた。
「そもそも天下の荒地は大同小異ですが、再復の道においてどうして別がありましょうか。さらに人民が悪弊の風習にただよって貧苦に陥いる者は、その実情にいたってはどの国といっても異なることはありません。その地に臨んで調査しなければ知りがたいものではありません。今、ここにあってその再復の方策を献ずればいかがでしょうか。」
上官は言った。「理はまさにそうであろう。しかしながらその地に臨んでその実事を述べるものは常則である。だからひとたび調査を遂げてその後に報告せよ。」と。
先生は言われた。「あえて命令にたがうのではありません。すぐにもまいりましょう。しかしながら私の言葉も理由がないわけでもありません。かの地に行って再興の道を論ずるならば、かの地についてその理を言うことになりましょう。その時は陳述する所はわずかにかの地の事にとどまって広く再復の道にあてはめることはできません。今その地を見ないで再復の道を全備すれば、天下の廃地を起す事のできない地はなく、天下の民の困窮貧苦を除くことのできないものはないことでしょう。そうであればひとたびその方策を献策してその理はここに尽き再三の命令をわずらわないですみ、またよろしいのでないでしょうか。前年下総(しもうさ)の国、大生郷村(おほのごう)の再復の道を奏上しました。その理にいたっては万国とであっても再興の道はこの他に出ません。しかし一村の調査として申し上げました。ですから一村の事にとどまって、再び日光の村々を再盛する事を命じられました。後年また他の廃地を起し、貧民を恵まれる時はその法則とならないでしょう。今、私の意中を尽して、民の再盛を安らかに恵む道を漏らさないで上奏し、もしよろしくなければ、たとえその地に臨んで後申し上げても何の益がありましょう。もしよいとして用いるべき道であれば、四海の地皆ことごとく同じでしょう。このためにその地を見ないで再興成就の道を上奏することを求めるだけです。」と。
ここに上官はこれを許可した。先生は門下を集めてさとして言われた。
「そもそも日光の土地というものは神君が鎭坐される地であって、村々は皆その祭田である。実にこの地を再復しこの民を安らかにする方策を命じられたことは仕法の幸いではないか。このために私が長年丹誠してきたところの仕法をことごとく筆記してこれ上奏しよう。この書がひとたび全備する時は、たとえ道は行われなくても、仕法の仕法であるゆえんは万世に及んで腐朽することがないであろう。孔子は一世道を行うことができなかったが、その書は永世に不朽しないで道はますます明らかとなった。お前達はそれこれをつとめてくれよ。」と。
ここに前から依頼の諸侯の領邑の事を辞退し来客を止め、夜を日に継いで、わずかな短文を筆記するのにもなお数日の思慮を尽し、数十度の添削を加えてその後によいとする。実に千辛万苦の力を尽して、肺肝を砕いたことは誠心に限りがないというべきである。このように研究の労を3年尽したがなおまだ原稿が完成しなかった。門下は往々事のおくれることを恐れ、先生に告げたが、研究の足らないことを憂えて、おくれることを憂えられない。時に真岡の代官鈴木源内が公用で江戸に来た。先生にこう告げた。「早く書を上奏せよ。」と。
先生は言われた。「まだ全部備えることができません。」
ここに代官は上官に報告した。
上官はこう命じた。「全部備えなくてよい。早く提出すべきである。」
先生はやむを得ないで徹夜寝ないで心力を労して、(弘化3年6月)ついに数十巻としてこれを幕府に上奏した。この時に当っては初め、命じた時の閣老以下すでに転勤していた。このためにまた開業の命令は下らないでいたずらに歳月を費やしていた。門人その他に至るまで、実業が行われないことを歎息した。時に諸侯の領内を再興する指揮を廃して既に3年となり、このため小田原領を始めとして往々中途で廃止に至ったものが少なくなかった。後に仕法を依頼する人々は、日光再復の書にのっとり、郡村を復興することを求めた。先生は言われた。「上官に上奏してまだ可否の命令を得ていない。ひそかにこれを伝えることはできない。」と。
ここにこの旨を上官に求めた。上官はこれを許可した。これによって次第に道を行うことができるようになった。




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