「二宮翁逸話」【1】~【36】by留岡幸助二宮翁逸話自序予が二宮翁の研究にとりかかったのは、明治36年の春で、指折り数えればもはや6星霜を経ている。 この間、予が歴遊した所で、翁に関係が浅くないのは、その生誕地として名高い相州(神奈川県)栢山(かやま)、起業地として忘れることができない桜町に今市、さらに進んで奥州(福島県)相馬等である。 そしてこれらの地で予が見聞した事柄はあるいは古老についてその逸事を探り、あるいは書類を調べてその事績をたずね、あるいは遺書をさぐってその思想を学び、そして得るところのもの甚だ少なくなかった。 集まるものは必ず散ずるの道理で、その結果の一部として世に出たのがすなわち 「農業と二宮尊徳」「二宮尊徳と其風化」及び「二宮翁と諸家」等である。 図らずもこれらの著述が江湖の厚き同情に浴し、すでに4版を重ねるに至ったのは全く意想外のことである。 現今わが国に二宮翁を歓迎するの声がすこぶる高い。 その声の高く響く方面はただに農業界のみでない。 進んでは教育界、宗教界、さては報徳と極めて縁の遠い実業界までもその範囲を広めつつあるので、一見不思議の現象である。 不思議の現象とはいうものの、時勢の要求である。 しかるに床の間に端座した二宮翁、講座にカミシモを着けた二宮翁の風采に接した者はこれまでも少なくないが、家庭のうちにいる翁の風貌、談笑の間に顕われた翁の言説にいたっては聞くところはなはだ稀である。 故に著者は本書において未だ世に現れざる翁の反面を描くことにつとめた。 予が二宮翁を研究するに立場より見れば本書は従来の著書に比べてその副産物ともいうべく、幸いに読者がこの書によって翁の平生を知る一助となれば、著者の幸福はこれに過ぎないのである。 これに加えてこの書が教育家、宗教家、さては家庭教育等の教材ともなり、幾分か修身斉家の上に補益するところあらば著者にとっては望外の幸福である。 明治41年7月 東京巣鴨家庭学校 編者しるす 1 陰気な台所と疫病神 二宮翁は台所や流しの窓を反古紙(ほごがみ)で張ることを大変に嫌われた。 反古で張るとただでさえ暗い台所はますます陰気になって貧乏神の宿にもってこいというようになる。 それだから奥座敷でも、どこでも反古で張ってさしつかえないが、流し元の窓だけは白紙ではれと常にいわれたそうである。 2 他人の慈善と組合の慈善 翁は平生陰徳を施すことをもってその心がけとせられたから、一個人で慈善をすることは嫌われ、報徳社のような組合で慈善をするほうがよいと常に教えられた。 それは一個人で慈善をすれば自然恩を着せるようなことがあるが、団体でやればその嫌いは少ないから組合で慈善をすると自ずから陰徳を人に施すことになるからである。 3 子供の仕付け方 野州桜町で翁が家屋を新築されたことがあって、その時翁の一子弥太郎というのが56歳ですこぶるいたずら者であり、ウボなどは随分困ったということである。 ちょうど廊下の突き当たりに壁を塗るばかりになってあるところを無理に通りたいと言い出してひどく困らされたということである。 翁はこれを見られて、すぐ大工に言いつけ、今にも壁を付けんとするところを打ち壊わさせて、弥太郎の言うとおりにそこを通り抜けさせた。 それから後で二度とかような所を通るのではないと懇々諭されたということである。 これは酒匂村の酒井儀左衛門という、その時弥太郎の守をしておった老翁の話である。 4 婿入に貧家を選ばせる 「二宮翁夜話」の著者である翁の高弟の一人で福住正兄翁は大磯在の片岡村の一男である。 その父に当たる人は常々人を癒す医者はあるが、国を治す医者はないと言っていたが、後に二宮翁のあることを知って、この人こそ国を治す医者であるというので、遂に正兄翁を野州桜町に遣わして6年の間二宮翁に仕えさせた。 その時正兄翁はまだ政吉と呼ばれていた時で、小田原の辻村や小西などの素封家(そほうか)からと福住家の諸方から同時に養子に所望されたが、福住家はその時身代も衰えて借銭も多く極めて貧乏の家であった。 それで翁にいずれへ養子に行ったらよかろうかと相談をしたら、 翁の言われるのに、 それは福住に行った方がよかろう。 財産家へ養子に行ったらとても報徳はやれまい。 そればかりでなく事によれば失敗するかも知れぬ。 しかるに貧家ではそういう憂いがないから といって福住家へ行くことを賛成されたということである。 正兄翁が身代の傾いたる福住家を今日のように箱根でも有数の温泉宿に回復されたのは正兄翁その人も偉かったに違いないが、二宮翁の眼識の高かったのはこれでもよく分かるのである。 5 二宮翁と富田高慶との初体面 富田高慶は相馬の藩士で江戸の聖堂で10年も儒教を学んだ人であったが、 無理をして学問をしたものと見えて多くは病気がちで芝巴町辺の磯野という医師の所へ通っていた。 患者の少ない比較的閑の時には富国安民という国家問題について折々磯野と論難したということである。 そういうことがたびたびあったのである時これも患者の一人である野州から来ていた某というのが、高慶に向かって、 「お前さんはしきりに己の師とうるに足る人物がないと言われるが、私の国にはこの頃二宮尊徳というエライ人が来ておってしきりに宇津家の仕法をしている。 この人ならばお前さんの先生には十分であろう」 と言われたので高慶は早速その所持せる書物をば悉く売却し、それを旅費としてわざわざ野州表まで訪れて行った。 いろいろ難儀の末ようやく野州桜町の宇津家の陣屋に着いて、二宮翁に面会を求めたところが、 翁の言われるのに「聞けばお前は江戸の学者であるそうだ、ところが俺は百姓である。 百姓が学者に会ったとて何の益もなかろうから」 とてたびたび懇望したにもかかわらず断乎として面会を謝絶された。 しかし世の中は捨てる神あれば助ける神ありで、その取次ぎをした人は桜町の某というものその時翁の門下生として陣屋で学んでいた人である。 この人はあまり気の毒に思って高慶もナカナカの人物であるから、貴重なる時間を無益に費やすのもいかないというので、今でいう青年夜学校を開いて桜町の若い者を教育したということである。 かくすること約半年ばかりで、人格の高い上に学識のある高慶のことであるから、そのことが村の評判となって、遂には翁の耳にも達した。 で翁はこの噂を聞いていたくその所業に感じたものと見え、今度は羽織袴を持たせて翁の方から面会を許すというので高慶を陣屋へ迎えられた。 ところがその初対面の話がナカナカ面白い。 なにしろ高慶の方では翁の知遇に感じて飛び立つごとき喜びで早速翁の前に出た。 翁はいきなり 「お前は学者であるそうですが、豆という字を知っておるか」 と言われたので、高慶は 「さよう心得ております」と答えた。 そこで翁は「さらば一つ豆という字を書いて見よ」という字を肉太にしかも明瞭に書いた。 ところが、翁の言われるには 「お前の書いた豆は馬が食うかい、多分この豆は馬が食うまい」 と言いつつ門弟に言いつけて倉から一掴みの豆を持ち来たらせ、 「俺の作った豆は馬は食うぜ」 と言ってそれを高慶の前に置かれたということである。 これが両人物の初対面の問答であった。 高慶はいたく理屈の国家天下を救うに足らないということを知って、これより誠心誠意を尽くして二宮翁の弟子になったということである。 6 二宮翁高慶の慢心を挫く 富田高慶は前にもいうとおり多病の人であったが、ある時翁に言うよう 「私も長くあなたに随身して世の中のためを図ろうと心がけ、多少国家に対しても貢献したように思うが、天は何ゆえにかくも私を多病ならしむるのであろうか」 といって己の病身について天を怨むような言葉を漏らした。 すると翁は 「お前よく考えて見るがよかろう。 鼠は戸棚をかじり天井に穴をあけ、日用の器具などに歯形を当てつつ夜を徹して働いているのである。 人間から見れば誠に迷惑で厄介なるものである。 お前は善い事をしたかも知らぬが、天から見る時には、あるいは徹宵働いて人間社会に害をなす鼠のようであるかもしれん」 とて風刺されたので、高慶も急所をつかれて大いに参ったという話がある。 7 学者は塗り盆のごとし 翁が富田高慶に面会を許さなかった時に門人某にこう言われたそうである。 「学者という者はちょうど塗り盆のようなものである。 新しいうちはとかく水をはじいて吸収しない。 それだからせっかく面会しても話が水泡に帰するの恐れがある。 塗りが剥げないうちは面会するも詮ない訳であるが、聞けばお前の家に半年もいるということであるから、もうだいぶ塗りが剥げたであろう」 と言って遂に面会を許されたということである。 この話は富田高慶が柴田順作翁に話されたというて静岡県庵原(いばら)村報徳社長西ヶ谷可吉氏が余(留岡幸吉)に語られたのである。 8 翁少しも政治にくちばしをいれず あれほど縦横に言論されたところの二宮翁が政治だけにはくちばしをいれなかったというのはチョット面白いと思う。 自分が言わざるばかりでなく弟子にも政治論は禁じてあったのである。 もし弟子のうちに政治にくちばしをいれんとする者があれば、 「お前などの知ったことでない。 ただ一心に自分の仕事を忠実に励め」 と叱ったということである。 がただ一遍翁は政治のことをいわれたことがある。 (略) 外国との交易は家康公の禁制であるから、厳重に守るがよい。 しかしはるばるアメリカから交易に来ることを思えば、何か彼に不足するところのものがあるのであろう。 わが国は寒暖よろしきを得て少しも不自由はない国柄である。 不足あるがためにはるばる来たりしものを「二年無く打ち払え」などというのは余り道理のつんだることでもなかろう。 広き世界を相手として、先方が不足するものをことごとく与えるということは、今のところ不可能のことである。 しかしながら我が国を見渡せば開墾の出来ないところも沢山ある。 これらを開墾して、その出来上がりたるものの余分を譲ってやるならば外国人といえども必ず満足するであろう。 無暗に打ち払うことは良くないことである。 しかし目下は外人に与えるだけの物がないから、交易はしばらく待てといって返したらよかろう。 それをも待たずして無理無体に交易を迫るようなことがあったならば、それこそ打ち払ってよろしい。 俺が宇津家の仕法に行きし時も、桜町の者で俺に対して敵対する者がないではなかったが、俺は家のなき者には家を建ててやり、厩のなきものには厩を与えてやった。 その恩人に対して一本参るという者は一人もなかった。 人情は万国同じである。 ある俗謡に 「なんぼ蝦夷松前でも人の心は変わりやせん」とあるがこの歌は最もよく人情をうがっておる。 この道理を広むれば、土地がらの変わった米国といえども好意を表すわが国に刃(やいば)をもって向かうわけはあるまい。 しかるを「二念無く打ち払え」などといって立ち騒ぐはよろしくないことである。 9 翁ある人の母親を戒む 翁はしばしば福住(箱根塔之沢温泉)に行かれて入湯されたが、福住家には子どもがたくさんあって、翁の行かれた時に子どもが畳の上に小便するのを見て言われるのに、 「女たる者はその子どもに小便はしばしばさせるものである」 といって正兄翁の細君を戒められたということである。 妻君もよほど感じたものと見えて後年しばしばこのことを他人に話されたということである。 10 翁と芋コジ会 芋コジ会というとなんだか変な名であるようだが、一名芋洗会というのである。 芋洗会というのはどういうことをするのかというに、 青年が互いに相集まって互いに錬磨しかつ懺悔しあうのである。 つまり何もかも洗うという意味であろう。 この会を監督する者は報徳者の世話人達であったが、 思うに青年夜学会に道徳修養団を加えたような会であって、 これは二宮翁の創設にかかるものだと今に言い伝えられている。 11 男沢(おざわ)家の翁の木像 小田原の城北に当たって藪のあたりに一家屋がある。 その表札を見ると男沢高柔とある。 余は先年、その家に行って翁の木像を見たことがある。 同家ではナカナカ珍重して容易に他人には見せないそうであるが、幸いに小田原の二見初右衛門氏の紹介によってその木像を見ることができたのである。 それは二宮翁が左手に扇を持ち、右手に「大学」を捧げて熱心に誦読(しょうどく)しておられるところの像である。 しかしその当時の言い伝えを聞くと翁の持たれたのは扇ではなく小柄(こづか)である。 何ゆえに翁が小柄を持っておられたかというと、 もし孔子が「大学」の中に間違ったことでも言っておったならば早速そのところを切り抜いてやろうというので、孔子の誤謬を発見せんために小柄を持って「大学」を読まれたということである。 この高柔氏の父君に当たる方はかねて二宮翁に随身せられておったのでその時に渡邊久清という仏師屋を呼んで障子の隙間からその光景を木像に取らせたのであるが、仏師屋だけに小柄ではどうも殺気を帯びていかぬというて扇にかえたということである。 それだから木像も仏様流に実際よりは耳が非常に大きくできておる。 この木像は男沢家の第一の宝であって、先代からも火事のあった時は第一にこの木像を持ち出せといわれておるくらいで、金銭などでは人にこれを譲ることはできないというておる。 それを見ても、いかに先代から現代の男沢氏までが二宮翁を崇信しておられたかがわかるのだる。 ところで二宮翁は孔子の誤謬を発見されたかというと眼光紙背に徹するまで読んでも、一言半句も「大学」に間違ったことがないというので、ついに小柄をなげうって降参されたということである。 二宮翁の降参されたのはこれが生涯にたった一度であったということである。 12 聖人の当座漬 「報徳記」を読んで見ても「二宮翁夜話」を読んでみても随分感ずる節が多いが、二宮翁に直(ちょく)接した人はさらに一層その感化力の偉大なることに感じたということである。 余が男沢氏を訪問した時、いかにして二宮翁と懇意になったかと尋ねたら男沢氏の答えに、 その当時小田原藩の勘定奉行に鵜沢作右衛門(うざわさくえもん)という人があったが、二宮翁はこの鵜沢家の家にはしばしば来られて講釈をされたということである。 その鵜沢と男沢とはごく懇意の間柄であるから、男沢は鵜沢を通して二宮先生に入魂になったそうである。 鵜沢の家に二宮先生が来られると報徳随身の連中は何事をさしおいても鵜沢の家へ集まって二宮翁に親炙(しんしゃ)したということである。 その時は翁を中心とし一座席を正しうして報徳談を聴いたそうであるが、翁のおられる所に行くと参集者は自然と形も改まり言葉遣いもかわりてあたかも鉄が磁石に引きつけられるごとく、一座の者はこの大いなる感火力に全く吸い付けられたそうである。 ある時のこと二宮翁が講釈を終えて言われるに、 「見渡せば諸君はたいそう形容整い威儀正しく座られておるが、これは聖人の当座漬みたようなものである」とて哄笑されたということである。 翁は直接した人々がいかにその感化力の大いなるに同化されたかはこれにてもわかるのである。 13 翁の容貌 翁の容貌については随分異論が多く、遠州派の翁の容貌論と小田原派の容貌論とはほとんど氷炭相容れないほど違っている。 余はどの派にも属さないが、自分で調べた所によって翁の容貌を描いて見ると、翁の顔面は円い方である。 口元が締まって眼元には溢れるばかりの愛嬌があって、眉毛は長く身体は大兵であって丈の高さは4尺だけの着物を着るほどである。 鼻は高く鼻根より隆起しておって中央が少しく波を打ったように曲がっておる。 そうして右の鼻下と上唇との間に当たる位置に一つのホクロがある。 耳は大きくかつ猫の口ひげのような鬚髯(しゅぜん)が耳の中からまばらに生えておる。 色は黒い方でなんとなく顔に締りがあって、意思の強いところが現われ、額は広くかつ大きく、音吐は雷(らい)のごとく響くのである。 すなわち相貌の上より論ずるも偉人たる資格は自ずから備わっておるのである。 余の見たる翁の像の中では剣持広吉氏の家にある画像が一番よいように思われる。 剣持広吉氏は栢山から半里ばかり足柄山のほうに寄ったところの曽比村の人で二宮翁の有力なる随身家の一人で、筆も立ち議論もでき、しかも名主であって報徳の実践家である。 渡邊華山先生の高弟である岡本秋暉(しゅうき)などもしばしばこの家へはとまりがけに出かけたものと見えて、秋暉の画は襖だの屏風などにたくさん張ってある。 二宮翁もまたしばしばこの家に来られて逗留されたと見えて、今は火災のためになくなっておるが、二宮翁のために特に一室を造って、そのところは二宮翁が来られた時だけに用いるので平生(へいぜい)は錠をおろして誰もはいれないようにしてあったのである。 この家に翁が来られた時にこれも障子の隙間より画工を連れて来て描かせたという肖像があるが、その肖像は余が研究したうちで一番よさそうに思うので、余は小田原から写真師を連れて行ってその肖像を撮らせたのである。 14 翁の俳句 翁の書や俳句はいろいろあるが、いまだ世に知れないものの2,3を挙げてみよう 元日や今年もあるぞ大晦日 この句はけだし遠き慮りなくんば必ず近き憂いありとの意を表したものであろう。 翁の経済的思想の一部はたしかにこの辺にあったのである。 名月や烏は烏サギはサギ 天寿百歳会長の三木雄氏はこの句を評して 「これは二宮尊徳先生の発句なり。 誠に物理を尽くしたる発句というべし。 上の五文字力ありてゆかし、蝶は日中を好み蛍は暗夜を好む。 花は紅、柳は緑、これ皆天地の分性にして少しも奪うべからず」と。 三木雄氏は有名なる俳諧師で本年78の高齢である。 氏の書かれた「一口残」という題字があるが、天寿百歳会長だけあって今一口食わんと欲するものを控えるならば人は自ずから百歳まで生きることができるとの意を寓したのであろう。 これはついでに記しておくのである。 二宮翁の弟に三郎左衛門(さぶろうざえもん)という人がある。 その人から3代目の孫に当たる二宮兵三郎という人が香山村におる。 余はこの人と懇意になり、しばしば翁のことにつきて質(ただ)したことがある。 この人は余の知る人の中で最も多く翁が幼時のこと及び未だ世に知られないことを知っておる人の一人であるが、その家に翁の遺物として古びたる「大学」「実語教」有名なる「家財諸道具売払帳」などいろいろの珍品がある。 その中に古びたる一冊の俳句帳もある。 その俳句のうちで最も余の感じたのは 長閑(のど)さや大盤石の人ごころ という句である。 俳句のうちには二宮山雪と記してあるのが四,五句もあるが。この句にもまた山雪としてある。 そこで段々研究して見たところが山雪というのは翁の俳号であって、この句は翁が20歳前後の時に詠まれたものと思われる。 こういう落ちつきはらった、山が崩れても動かないような安身立命のできた腹の底を現わすことのできる俳句はとても凡人の企て及ばないところで、たしかにこれは翁の詠まれた句に相違ないと思われる。 余は文学者でないから翁の俳句について文字の配列や言い回しを大胆に評するの資格はないが、叙上の句のごときは腹のある人でなければ到底言うことのできない句であると思う。 この句と同じく 天地(あめつち)や無言の経を繰りかへす という一句がある。 これもまた腹あり頭ある人でなければ詠めない句である。また 暮るるとも思はず花の山路かな これは「報徳記」にもあるごとく翁が 「鶏鳴に起きて遠山に至りあるいは柴を刈りあるいは薪(たきぎ)を伐(き)りてこれを鬻(ひさ)ぎ、夜は縄をない草鞋を作り寸陰を惜しみ身を労し心を尽くし母の心を安んじ二弟を養うことにのみ苦労せり。 しかして採薪(さいしん)の往返にもなお大学の書を懐ろにして途中歩みながらこれを誦(しょう)し少しも怠らず」うんぬんとあるように。 この歌も遠山に出入した時の道すがらなどのことを思い合わせるとまことに趣味の尽きざるものがあるように覚える。 (略) それから文か詩か歌か何かサッパリ分からないが、翁の性格をうかがう一端にもなると思うからついでに掲げておく、それは 東西南北四本の柱青天井を我が部屋として という句であるが磊落奇偉の一端がなおその中に現れて面白い 15 三幣ドンキと脇山喜藤太 文政6年二宮翁が大久保侯の命を受けて桜町に赴かんとした時のことである。 侯が翁に言われるには 「桜町の回復を図ることはなかなか容易のことではない、だれか片腕ともなるような者があれば補助者として伴い行け」 とのことであった。 その頃小田原に三幣呑鬼(さんへいどんき)という人があったが、名を弾正と呼び、かつ才幹もあったので、 翁はこの人こそ然るべしとて遂に翁の補助者として桜町に同伴することとなった。 この時翁は三幣と誓約して 「桜町の三村がめでたく回復せられて村民一同が安堵するまではたとえ君命があってもお互いに栄転などはしないよう」と堅く言いかわせりと。 僅か2年立つか立たぬに侯は三幣を呼び戻して「年寄職」を命じたもうた。 三幣はこの仰せを聞くと大いに喜び、さきに二宮翁と堅く誓約せることをば紙屑(ほご)となし、翁には一言のあいさつをもせずに、そこそこに小田原へ帰った。 この時、翁は痛く歎息せられたとのことで、そのことは載せて「報徳記」にある。 君ひとたびこの地興復の事を助力せよと命ぜしに三幣を他の用に転じたまう事過れりというべし。 しかれども君は君なり。 三幣何ぞこの難業を我一人に負わせ契約を変じて君命を受け、一言の辞退もなくまた我に一言も談ぜずしてその職分を悦び、この地の事を遠見の理あらんや。 その信なきことかくのごとし。 何をもって独り君のために身を顧みざるの忠を尽くすことを得ん。 信義を棄て、心を目前の幸福に用いる。 三幣必ずその終わりを遂ぐることあたわず。 あにこれ一人の不幸ならん、実に国家の憂いなり。 と、その後三幣一時は不義の栄華に時めきて音物(いんもつ)の空箱にて風呂を立てたるくらいであったが、驕る者は久しからずで、遂に失錯の結果官ははがれ、職はやめられ、活計その道を失い借財のため家財を失い極貧に陥った。 背に腹はかえられないものと見えて面目はないけれども友人脇山脇山喜藤太を頼み同伴して野州桜町二宮翁のもとに無心に出かけた。 しかし自ら無心を言うのも すこぶる心苦しいので脇山をもって意中を翁に洩らさしめたそうである。 その時翁の答えが面白い。 三幣をもって祈るやごきとうだ 脇山かげにドンキ隠るる 三幣はこの歌を聞いてさすがに居たたまれなかったと見えほうほうの体(てい)で引き返したとのことである。 16 田植の句 田植の時はナカナカ忙しいものと見えて剣持広吉は 朝まだき駒の足なみいさぎよく 植ゆる田の面の賑(にぎあ)ひにけり と詠みしが、これに郡奉行(こおりぶぎょう)の鵜沢作右衛門がそれに和して ひざりひざりひざりて植ゆる田植えかな と詠んだのを二宮翁見て、コンナ奴らが多いから困ると言われ 馳せ馬に鞭うちかけて田植えかな と詠みかえされた。 すると、広吉大いに感動して 二宮先生は実にエラいと言いしとぞ。 (略) 17 翁は器用の人なり 翁は若い時から器用な人と見えて、小田原の二宮神社に奉納してある松板で造った一斗桝のごときも翁が手づから作られたので、枡の改良をせられたために1年の年貢を免ぜられたことがある。 そのほか各地へ仕法に行かれても田畑に水を引くために自分でトンネルを造るとか。堀割をこしらえたことは少なくない。 また大神宮の神棚のごときも作られたことがある。 「人間としてできないものは一つもあるまい」とて翁は常に他人のすることはすべて自分で試みられたということである。 18 翁の嫌われたもの 翁の嫌いなものが2つあった。 それは坊主と学者で、この2つは翁の大禁物であったらしい。 ある人が坊主と学者が嫌いなわけを問うた時に、翁の答えが面白い。 「他からもらったボタ餅を自分の作ったものとして人にやるようなことをする者はおれは大嫌いだ」 と言われたということである。 また人から聞いた話をさも自分の話のように話すことは常に忌まれた。 翁は常に門人に対して 「まず言うだけのことを行った後に人に話せ」 と教えられた。 西洋のことわざに “No right to speak” という言葉があるがこれは 「発言の権利は実行しない者にはない」ということである。 東西比較し来たって趣味津々たるものがある。 19 報徳の難関 小田原の藩士三幣弾正かって 「報徳のむづかしき所はどのあたりにあるか」と尋ねたところが、 翁答えて 「誰でも苦しい時はいかなることでもよく守るが、少しく楽になるとたちまち怠る。 報徳ではここが一番難関である。」 と言われたということである。 これについて思い合わすことは報徳の仕法を実行する者に2種類ある。 一はあまり貧困でもなく、どうやら食うていけるような人が報徳をやると、10に8,9までは本当の報徳が実行されないようである。 これに反して極貧にして進退窮まるような人が報徳をやると、まじめに承けて全力をこれに傾注するものと見えて成功する者が多い。 これは余(留岡幸助)が長い間実地に報徳の行われている地方を調べて発見したる事実である。 ゆえに報徳を実行せんとするものはこの辺に深き注意を払わなくてはなるまい。 20 倹約と吝嗇との違い 翁は非常な倹約家であったことは、 「飯と汁 木綿着物は身をたすく その余はわれを責むるのみなり」 という翁の歌によりても明らかである。 ある人が翁に倹約と吝嗇とはどのように違うかと問うた時に翁は 「お前それが分からないのか。 一升の米の要る家では一升食えばよいが、一升以上に出たらすなわち奢りとなるのである。 また一升要るところを9合食い8合食うて必要を充たさない時はすなわち吝嗇となるのである」 といわれたので問うた人は生涯この言葉を守ったということである。 21 翁の書簡 翁は常に手紙を多数出されたので、傍らに書記がおって、翁の言われることを書いた。 翁は丁寧な人であるから書かせた後、必ず読ませて一応聞くのである。 筆者は翁の口授されたのを読み返すに、時々 てにをは が違ったり 字句をなさ ない所があると直しておくので、翁のいわれるのに、 「それは間違っておる」。 筆者「失礼ですが、文章をなさないからちょっと直しました」と答えると 「それではお前の手紙であって俺のではない。 俺の手紙だから俺の言うたとおりに書きなさい」というて、元のとおりに書き直させたということである。 これは間違ったなかにも真面目(しんめんもく)が現れて面白いと思う。 22 翁の記憶力 毎月の決算は書記が一応翁の検閲を経ることになっておるが、翁は必ず「間違いはないか」と念を押す。 「間違いありませぬ」と答えると、「さらば読み上げて見よ」という。 書記が一々何両何分何朱と事細かに筆数を数え上げると、翁は瞑目して計算しそれでは「いくらいくら間違っておる」と言われたということである。 23 某家の仕法と翁の立聴き 小田原近郊の由緒ある某家が身代限りをしようとしたので親類の者どもが集まっていかにすればよいかと仕法を相談しておった。 ちょうど翁の12,3歳の頃であったということであるが、某家の裏の陰に隠れておって、その相談を聴いておった。 するといろいろ協議の結果、まず田畑を売却するがよかろうということに一決した。 翁これを聴くや出し抜けに「ソンナことで仕法ができるものか」と大声を発した。 家内の者が人の仕法を立聴きするのはけしからん奴であるというので、あちこち探したところが、12,3歳の百姓の子どもが裏の垣根の陰に隠れておるのを見いだした。 そこで叱っていうに「何ゆえに人の仕法を立聴きするか。またそんなことで仕法ができるものかとはどういう訳か」と詰問したところが、翁答えていうよう。 「百姓が仕法をするのに最初に田畑を売るということはない。 まずもって家を売るがよかろう。百姓は土地がなくては何ごともできないから田畑は一番最後にするがよかろう」といわれたので並みおる人々も一驚を喫したということである。 24 妻君翁に離縁を迫る 翁は服部家のために仕法をたて5年の後に千両の負債を償い、余裕300両を得たりしかば、100両を御用金にとてお上へまた100両をば予備金にとて夫人に差し上げしに服部家では残り100両を報酬として翁に賜った。 然るに翁はこの改革をめでたく仕遂げたのは自分の力のみではない。下男下女の力も大いにあづかっておるというので、下女下男を一堂に集めてその労を謝し、100両を彼らに分配して、自らは無一物で飄然栢山村の宅に帰った。 すると妻君は翁が5年も他家 におって働いたのであるから、さぞかし多分の報酬を貰って戻ったであろうからというので、ご馳走をこしらえ風呂を沸かしてその労をねぎらい、もう金が出るか出るかと待っていても翁は何も出さない。 そこで妻君が「お前さん5年も服部家に辛抱して働かれたのであるから定めしお金もできたでしょう」と問うたら、翁が今の始末を一部始終告げた。 すると妻君は自分の思うところと反対であったのでたいそう落胆してしばらく熟考の体であったが、おもむろに口を開いていうよう、 「お前さんのような人に連れ添うておっても先が案じられるから今晩かぎり離縁をしてくだされ」と迫った。 その時の翁の心事はどうであったであろう。 5年の間食うものも食わず、着るものも着ず、身を粉にし心を砕いて服部家の仕法を仕遂げてめでたく我が家へ帰るやいなや、妻君に離縁を申し込まれたのであるから、さぞかし不愉快言わんかたなかったであろう。 そこで翁は一応妻君の不心得を諭したが妻君どうしても聞き入れない。 で翁の言われるには、 「せっかくお前も5年の間辛抱して待っていてくれたのに、今お前の望みとおり離縁したところで、お前も無一物で出なければならない。それでもぜひ離縁してくれというならば仕様がない。離縁もしようが、今しばらくおって着物も作り、小遣いも持ちて帰りたらどうだ」と。 そこで妻君はそれもそうだと思ったか、しばらくおって機(はた)を織ったり、着物を作ったり小遣いをためたりして後、家を出たということである。 ところが星移りて物変わりて、翁は小田原公い重く用いられ立身出世して幾年かの後栢山村の近くの飯泉村に行かれたことがあったが、まさに望んで離縁した妻君はその頃すこぶる難渋しておったので翁の泊まっておる名主のところに行って無心をいわんがために翁に面会を求めた。 翁は合われずして言われるには、 「明日(みょうにち)この村を出発するから、知らぬ顔で村はずれへでてこい。 そうすると俺が少々心付けを紙に包んで落とすからそれを拾うてくれ。 今更お前に会う用が無い。」というて面会を謝絶された。 翌朝早く供を連れて飯泉村を出外れると袂(たもと)から包み物を落とされた。 するとすぐにそれを先妻が拾うて帰ったということである。 25 翁の抱負 翁は幕府から取り立てられて御普請役格というので日光の御神領地に行かれたが、翁の抱負はただに日光89ヶ村を改革するのみではなく、その改革がうまく行われたならば日本60余州も報徳の主義をもって一統し、いな60余州のみならず、当時は外国人もしきりに我が国へやって来たので、世界万国までも報徳の主義をひろめようという考えであったらしいのである。 ある時翁が「釈迦の宗旨でも8宗や9宗あるから、おれの報徳も100宗ぐらいになるであろう」と言われたということである。 もって翁の抱負いかんが推測されるのである。 26 翁の三あだ名 元来あだ名なるものは名誉なるものであるか不名誉なるものであるかというに、あだ名というあだ名に名誉のものは極めて少なかろう。 あるいは失策をするとか、あるいは一種ヘンテコなる特徴が顔にあるとか、何事に限らずあだ名なるものは、人の不名誉または過失等に対して付せられるところの符丁である。 (略) 二宮翁に3つもあだ名のあったことを物語るのは何だか高徳の翁にキヅを付けるかのごとく思われるのであるが、決してそうではない。 翁のあだ名はこれを研究するほどかえって一層の光輝(ひかり)を添ゆるのである。 第1 「キ印の金」 翁は幼名を金次郎といい、後ち尊徳と呼ばれた。 さりながら誰れあって幼少の時、翁を「金次郎」または「金さん」と呼んだものはなかった。 皆「キ印」という形容詞を付けて呼んだのである。 その次第を尋ぬるに、翁は幼少の時から敢為の気象に富むと同時によほど突飛の言行があったものと見ゆる。 富田高慶のごとき沈着の人でことに二宮翁大の崇拝家ですらその著「報徳記」の始めにこういうことを書かれている。 鶏鳴(けいめい)に起きて遠山(とほやま)に至り、或(あるひ)は柴(しば)を刈(か)り薪(たきゞ)を伐(き)り之(これ)を鬻(ひさ)ぎ、夜(よ)は縄を索(な)ひ草鞋(わらぢ)を作り、寸陰(すんいん)を惜(をし)み身を労(らう)し心を尽(つく)し、母の心を安んじ二弟を養うことのみ労苦せり。 而(しか)して採薪(さいしん)の往返(わうへん)にも大学(だいがく)の書を懐(ふところ)にして途中歩みながら之(これ)を誦(しよう)し少しも怠(おこた)たらず。 是(これ)先生聖賢(せいけん)の学(がく)の初(はじめ)なり。 追路(つゐろ)高音(かうおん)にこれを誦読(しようどく)するが故(ゆゑ)に人々怪(あやし)み狂児(きやうじ)を以て之を目(もく)するものあり。 かくのごとくその他の事においても翁は突飛の行い多かりしがゆえに人々これを気狂(きちが)いと呼ぶに至れり。 翁の幼少の頃、同じ栢山村に岡部善右衛門という金持ちがあった。 その子どもの教育のため、今でいう家庭教師としてある儒者を招いて四書五経を教えさせておった。 翁の家は貧しくて師に就くこともできぬというところから、時々岡部の家に行きては、戸外にたたずんでその講義をぬすみ聞きしたところが、その講義のうち、意に満たざる事があると、障子の外から「ソレは間違っておる」と大声を発して怒鳴った。 儒者が大変怒って障子を明けてみると、「キ印」の金次郎であるので、これをなじると、 「お前さん、前にかように言っておいて、今このところでこう結んでは前後があわない。 前にかように講ずるならば後はこう結ばなくてはならない。」としきりに理屈を並べ立てた。 そこで儒者も大いに感服して、後には翁に音読を教えて意義はかえって翁から学んだということである。 その頃、農村の娯楽としては、里芝居とか義太夫とか年に両三回もあり、栢山村にもまたかくのごとき習慣がありて時々会合したが、ある時一人の浄瑠璃語り来たりて某家で太閤記の十段目を語ったが、光秀の母の皐月が久吉と間違われて光秀の竹槍にかけられた愁嘆場になり、 「嘆くまい嘆くまい内大臣春長という主君を害せし武智(たけち)が一類、かく成り果つるは理の当然、系図正しき我が家を逆賊非道の名をけがし不孝者ども悪人どもたとえがたなき人非人、 不義の富貴は浮かべる雲」 というところに語りきたると、聴衆のうちより大音声にソコヂャというものがあった。 あまりの大声に太夫は腰をぬかして語り続くることができぬのでついに中止したという。 集まった村人も太夫も不平たらたらにて散会したが、翌日太夫がある人に向かって昨晩わしの浄瑠璃に横やりを入れたのは誰れであったかと問いたるに、あれは「キ印の金」なれば頓着するほどのことはあるまいと答えた。 浄瑠璃語りも何か思う節あると見えて是非その子どもに逢わせてくれというので金次郎に会わしたが、その時浄瑠璃語りが翁に 「お前さんは何ゆえ昨晩あのような大声を出したか」と問いしに翁は 「あの浄瑠璃は光秀に対する母の諌言が最も大切なところで、十段目の生命(いのち)はかかって 「不義の富貴は浮かべる雲、主君を討って功名顔、たとえ将軍になったとて野末の小屋の非人にも劣りしとは知らざるか、主に背かず親に仕え、仁義忠孝の道さえ立てば、モッソー飯(はん)の切り米も百万石に優るぞやの文句にあり。 あそこを甘く語る浄瑠璃語りならばその目的はすでに達した者であろう。 だから己(おれ)が掛け声をして力を入れてやったのに、お前が腰を抜かしたのだ」といって破顔一笑したということである。 (略) 第2 ドテ坊主 「報徳記」によれば 「小田原酒匂川(さかはかわ)其の源(みなもと)富嶽(ふがく)の下(もと)より流出し、数十里を経(へ)小田原に至りて海に達す。 急流激波洪水毎(ごと)に砂石(すないし)を流し堤防を破り、稍(やや)もすれば田面(たおも)を推流(おしなが)し民家を毀(こぼ)つに至る。 年々川除堤(かはよけつつみ)の土功(どこう)息(や)まず。 故に邑民(いふみん)毎戸(まいこ)一人づゝを出して此の役(やく)に当(あた)らしむ。 先生年十二より此役(このやく)に出でて以て勤む。」 とあるがごとく幼少ながらも瞬間も翁の脳裏を離れなかったものはこの酒匂川であった。 翁の生存した天明年間より天保年間より天保安政年代にかけて、洪水や、飢饉が、頻々として到り、この酒匂川もしばしば溢れて田地田畑を荒らした。 翁の家ももとは富んでおったが、極貧洗うがごとくなった原因の一は、確かにこの酒匂川の堤防が決壊したことによるのである。 そんな風であるから少しく雨が降ると栢山の村民は何れも心配して、いかにして堤防を守らんか、いかにして氾濫を防がんかということに苦心焦慮した。 翁は幼少の時からいたくこの事に腐心し、たとい雨の降らぬ時でもしばしば堤防に到りて小破を繕い大破を治め、終始堤防をその遊び場のごとくしておった。 それ故に金次郎のおらざる時は堤防に行けとは、当時二宮家と親しく交わりしものの言いなしたところであった。 そこで村人は誰いうともなく翁を称して「ドテ坊主」とあだ名した。 ある年、堤防が大破損して小田原藩の経費のみでは復旧しきれず、幕府の補助を求めて修築したことがあった。 当時幕府よりは御普請奉行出張し駕籠(かご)に乗って堤防を検分せしかば、 翁は当時なお幼少なりしにもかかわらず、終始御駕籠の側に陪従して遠慮なくクチバシをいて、 「そこをそうしては水あたりが強い、ここはこうせねば蛇篭(じゃかご)が持たない」などと口を入れるので、その都度付き添う村役人は手に汗を握ったということである。 第3 「グルリ一遍」 翁はまた村民よりして時々「グルリ一遍」とあだ名せられた。 それはいかにというに、元来農村のことであるから、あるいは降り積もる雪の朝、あるいは降りそそぐ雨の日などは、戸外にありて耕作することができないから、戸内の仕事として穀物をウスつくことが珍しくない。 故に翁も雪の朝雨の日などは怠らず米麦をウスついたものとみえる。 ここにおいてか、「グルリ一遍」の称号を取るにいたった。 米や麦をウスつく時には、杵(きね)を上げ下ろしするごとに一歩転ずるのである。 そうして順次一回りして元のところに戻る。 そこに見台を据え付けて大学や論語がのっておる。 一度元の場所に回転しきたった時に、翁は必ず数節または一章を読んだのである。 ぐるり一遍すれば必ず読書したるがゆえに「グルリ一遍」のあだ名をとったのである。 (略) 27 翁の「桜飯」と無頼漢の訓戒 翁が20有余歳の時でまだ家をなして間もなかった頃であろう。 村内に風儀のよろしからざる者があって、村の者が迷惑するということを聞かれ、「桜飯」をこしらえてしばしば青年を集めて教えられたということである。 今でいうと夜学会のごときものであるが、単に講釈を聴かせるとか物を教えるとかいうては若い者が集まってこないので、細君に命じて「桜飯」をこしらえてご馳走されたということである。 その「桜飯」というのは醤油を少し入れて桜色として味をつけたもので、いわば茶飯のような物である。 その集まって来る連中のうちに弥八という無頼者があった。 こやつは「桜飯」を食らうと直ぐに帰るのである。 しかし翁は物を教えるというて招かず「桜飯」をごをご馳走するからというて呼んだのであるから、なぜ帰るかということができないので、さすがの翁も弥八には困られたということである。 この時分にも先妻某はいまだ家をなしてから間もないことであるからしばしばご馳走をして大勢を招くのは困るということで大いに不平をこぼしたということである。 28 翁の妻君 翁が離縁したのはその先妻で、野州桜町まで死を決してついて行ったのは後妻である。 後妻は歌子というて飯泉村の人で小田原のある士族の家に奉公しておったということであるが、この人は14,5歳にしてよく四書を読んだと言い伝えられておる。 翁に嫁した時は15歳であるから翁とは大分年齢が違っておったのである。 この夫人にできたのが弥太郎すなわち尊行と娘すなわちふみ子とである。 29 芋種を囲う譬え 翁は天保8年頃までに小田原の農業部落にほとんど報徳の結社を普及せしめて、これよりは士族にまでも報徳の仕法を及ぼさんとせられたのだが、悲しいかな、大久保公がちょうどこの時亡くなられた。 藩の重役は遂に二宮翁を排斥して、 「都合あり報徳の仕法は当分畳置く」 というので、せっかく設立された当時の報徳社はことごとく解散を命じ、 また翁が小田原地方に来られても翁と交際することすらも禁じたのである。 そこで報徳熱心の人々は非常に狼狽して翁を訪ねて嘆いたことがある。 その時翁は 「滋養分の多い物はとかく寒暑にたえがたい。たとえば芋のごときは寒気に当たれば直ちに腐敗する。 それゆえに芋種はいたまぬように囲うておかなければならぬ。 そのごとく報徳という芋種をどうするかというと蔵に囲うておけばよい。 何れまた春も来るであろうからその時は芽を出すに違いない」 というて、少しも狼狽せず、従容として道の存するところを説かれたということである。 30 翁の手習 翁は今の人のように紙や筆墨で手習をされたのではない。 盆の上に酒匂川のごく細かなる砂を入れ、それをならして杉ハシをもって一生懸命に習われたということである。 そして習字手本は祖父の銀右衛門が書いてやられたのである。 31 翁の苦学 翁は、「報徳記」にあるごとく閑がないので夜分人の寝静まった時とかあるいは山に行って休息の時とかあるいは道を歩く時とかに「大学」を読まれた。 その「大学」は今二宮兵三郎氏方に残っておって、余もしばしばこれを見たが、その「大学」の中にある君子というところに「ヨキヒト」という仮名が付けてある。 また、「小人閑居して不善を為す」の「閑居」というところに「ヒマ」という仮名が振ってある。 また服部家に仕えておられた時に、服部家の息子が学問をするやめに儒者のところへ行くと翁もまた伴をして行って玄関や縁側で待ちながら聴き学問をしたということである。 32 翁若者の遊戯を戒む 村の若者が休日に棒押しをしたり、路傍の石を差し上げて力比べしておると、翁はそこへ行って 「お前たちはそんな無益なことに力を遣ってはいけない。 もっと生産的のことをやらなくてはならぬ。 力比べをするならば山に行って木を担いて来い。自ずから力量が分かる」 と 言われたということである。 33 翁の除草法 翁は、「畑の草を取るにはなるだけ小さい草から取れ。 またあまり生えていないところから取れ。そうすれば早く取れる」と言われた。 この筆法を藩政の改革に用いられたと見え、翁の改革は難村のなかでも比較的良い村から改革を始められた。 しやすいところから改革を始めれば自ら難しいところは良くなるというので、また力の消耗しつくさないところから改革を始めたということである。 除草法と難村の改革とを同じ筆法でやったところは実に面白いことではあるまいか。 34 翁の嘆息 翁が嘉永6年の2月に日光御神領地の仕法を命ぜられた時、涙を流していわれるのに 「俺は土地の開拓よりは人間の開拓をする積もりである。 それに、また俺に土地の開拓を申し付けるか」と嘆息やや久しうしたということである。 翁は荒地の開拓をもって最も大切なることとしたけれども、更に大切なることは、荒地の開拓よりも、心田の開発である。 「一人の心の田地が開発されれば万頃(まんけい)の荒蕪地あるも恐るるに足らない」と言われたのはこの消息を洩らしたのであろう。 (略) 35 反対者翁を威嚇す 翁の名声高くなりてから江戸に来られると、必ず芝西久保にある宇津家の下屋敷におられて、そこへ門下生を集めて話をせられた。 ところが翁に反対する者があって「打ち首」とか「遠島」とか「焼き払い」とか、いろいろの張り紙をされた。 こういうことがあると人間という者は気の弱いもので、昨日まで門弟子というて集まっておった連中も段々用事にかこつけて帰ってしまう。 甚だしきは逃げて帰る者もあった。 そうすると先生いよいよ熱心になって元気はますます加わり、困難の襲いきたるごとに勇気百倍して難事にあたられた。 ことに著しかったのは不動明王の掛け物をかけて 「これでなくては事はできない。人間は火の中に立って厳然と仕事をしなくてはならない」というておられた。 その時、弟、三郎左衛門と翁の一子弥太郎と二人切りであった。 ちょうど真夜中であったが、翁が二人に向かって一生懸命に天下の道を説いて聞かせられるのに二人はその説法中に居眠りを始めた。 翁大いに怒って、 「この困難の時にあたり汝らのために天下の道を説くに意気地なしに眠るということがあるか」というて非常に叱られたということである。 36 翁の三奇蹟 これも宇津家の下屋敷であったということであるが、暮れ方に先生が風呂に入っておられると、突然若者が来りて 「先生おあぶのうございます」というやいな消えてしまった。 翁も自分に危害を加える者があろうということは予め考えておられたので、そこそこにして湯殿を出られた。 部屋に帰られるや間もなく二本の槍が湯船の真ん中を貫いたということである。 これは全く天佑であった。 また翁の14歳の時に飯泉の観音堂に行くと行脚の僧が忽然と来たって観音経の奥義を示し、忽然としてその行くところを知らなかったという。 もう一つは、弟三郎左衛門もまた道を聴く上からいうと翁の弟子であったので翁を慕って野州に行った。 その時翁が言われるのに 「よく来たが、お前の家は火災で焼けるかもしれないから直ぐに帰れ」というて三郎左衛門を栢山村に戻された。 帰りて見ると自分の家が火を失して畳と板間が燃えつつ大事になろうとしたところを消し止めたということである。 この3つは翁の生涯の3奇蹟として数えられておるが、人の一生には不思議のこともあるものかな。 ジャンル別一覧
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