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「二宮尊徳―現実と実践―」下程勇吉著一~五

「二宮尊徳―現実と実践―」下程勇吉著 昭和17年7月20日発行 弘文堂書房
   序
 本書は崩れゆく封建制のまっただなかに天人一貫の道を築く即物的実践にその70年の生涯を捧げた二宮尊徳の世界観の諸領域を統一的に叙述せんとするものである。
本書の立場は曲解と無理解の故に可能なる偶像破壊的立場でも無条件的礼讃に終始する偶像崇拝的立場でもない。
「人間」二宮尊徳がいかにしてわが身にそなわるものを生かしぬいて自他一如天人相即の立場に参入し、天地の間に「人」として立ったか、この間の消息を幾分たりとも明らかにしたいのが本書の眼目にほかならない。
道を忘れた立身致富の現実主義も現実を忘れ去った観念的立場もともに、現実を徳の相のもとに生かすことは語りやすくして行いがたいことこの上もない道である。
しかもこの道をおいて真箇の人と国の道はありえないであろう。
二宮尊徳はその苦闘に充ちた生涯の現実的実践自体においてかかる道を証(あか)し示している。
彼こそは日本の大地自然が生んだ一個の求道者であった。
自己内外の運命に徹し自己を究めぬいて天地の間に「人」として立つ道をつかんだ先覚の膏血ににじむ足跡に直接することこそは、まさしく後から行くものの心に永遠なるものへ志向をよびさまし、その身に宿りこの土の上に生きているものを全くする道を開く一助となるであろう。
近く維新の危機と飛躍とをひかえた封建制末期の先覚に生きていた道徳的エネルギーを想起することは、世界をあげての激浪にゆすぶられる今日のわれわれにとって必ずしも無意義にあらずと億念し、あえて別著「天地と人道」と相補い一円相即すべき本書を上梓する所以である。
 封建的なるものの否定的超克を西洋文化の媒介によって成就した現代の日本は、まさしくその点に関して多くの問題を包蔵している。
封建的なるものまたは中世的なるものの再認識と再検討こそは、現代の世界一般の問題であり容易に論断しがたき歴史的課題に属するであろうが、別して我が国においてはこの問題は日本的なるものの西欧的なるものという対立の問題と交錯しているだけに複雑を極めている。
この時にあたり、歴史的必然性をもって超克せられた悪しき封建的なるものと封建的なるものと封建的伝統のうちにも宿る真実なるものとを明別し、彼此検討しもって真の歴史的進運に貢献することは、今日の歴史的転換期に生きるものの責務にほかならない。
尊徳における実践的態度を目して唯一無二となすならば、もとより多くの異論がはさまれるであろうが、その徹底的即物的実践の精神こそは真箇の具体的建設を志すものの魂に何ものかを与えるものなることを著者は確信するものである。
複雑なる歴史的現実に行動する尊徳の全行蔵はあげて一なる哲人的主体性に発している。
現実の多に触れるごとに、彼は一なるものを深めて行ったのである。
政治的経済的練達性と哲学的主体的根源性との渾然たる統一をその一身に体現し、「実学」に即して「人為(ひとため)」の経国理想を歴史的現実的に貫いた彼の即物的実践の立場こそは、福徳一致の道徳理想がすでに過去の個人道徳の範疇と目せらる現代において、別して深き意味をもつといわれよう。
何はともあれ本書が世界的深底に達した我が国の先覚の精神を多少とも伝えうるならば著者の本懐これに過ぎるものはない。
  昭和17年2月    著 者
   第1章 実学への要求
       一
 寛政3年酒匂川の岸に狂った怒涛は、大地の哲人二宮尊徳の精神を呼びさます波頭でもあったのである。田畑ことごとく荒廃に帰し赤貧のうちに彼ら三人の兄弟を養育した両親の艱苦と丹誠とは、少年金次郎の「骨髄に徹す」るものがあった。終生彼が「父母の大恩無量」を語るとき、語るもの聴くもの共に涙を禁じえなかったという。人一倍豊富強烈な感情を恵まれた尊徳は、その生涯の第一歩において赤裸無一物天涯孤独ぎりぎりのところに追いこまれ、「人生の道」に思いを致さざるをえざる性格と運命とをうけて出発したのである。彼の思想・行動は実にかかる運命的主体的な必然性に根ざしている。乾坤孤?を卓するの寸地なき〔無学租元「臨剣の頌」: 乾坤孤?(けんこんこきょう)を卓(た)つるに地なし喜び得たり、人も空、法もまた空なることを。珍重す、大元三尺の剣、電光影裏春風を斬る〕とき、よく真理を語るものは断簡零墨といえども、弾力ある魂に対しては深き生命の道を示すであろう。一家流離の間に人間の涙を味わい尽くしたこの少年こそは、迫りくる運命の暗黒によって、かえって光に向かう求道心を触発せられるがごとき弾力的なる魂の持ち主であった。豊富熾烈なる感情の核心を貫くに一筋の求道心をもってする孤独の少年に対し、「富は一代の財、智は是れ万代の財」「千両の金を積むと雖も、一日の学に如かず」というごとき「実語教」などの語がその心の根底に触れる何ものかを啓示したことは想像に難くない。
「学文怠る時なかれ、眠を除いて通夜誦せよ、飢を忍んで終日習へ」
こうした単純な言葉は一筋の魂を通じて一つの歴史的勢力を産む原動力を培ったのである。
幼にして書物に親しみ、山に通う道すがら高音書を誦し、「狂児」の名を得たこの少年は、また暇あるごとに酒匂川の土手に姿を現わし、地形や河勢について通ぜざるはなく「ドテ坊主」とも呼ばれたという。
読書と経験、哲学と経験、哲学と実践とは、彼の心と体とを貫く二にして一なるものであった。
哲学なき低級な経験主義も、経験を忘れた迂遠な悟道観も、彼には共に邪道であった。
経験に徹すれば徹するほど、哲学に深まるとともにまた一層深く経験に徹する即物的主体性の立場こそ、二宮尊徳を一貫する「学」の概念にほかならない。
かかる立場より神儒仏三教の精髄を主体的に統一する彼独自の実学主義が生まれるのである。
まず第一に当時の神儒仏三教の教学は、尊徳の目にはいかに映じたであろうか。

       二
 これを一言にしていえば、当時の教学一般の徹底的否定である。
「今の世の仏者達の申さるゝ仏道が誠の仏道ならば、仏道ほど世に悪しき物はあるまじ」という言を示された尊徳曰く「誠に名言なり、只仏道のみにあらず、儒道も神道も又同じかるべし。今時の神道者達の行はるゝ処が誠の仏道ならば世に儒道ほどつまらぬ物は有るまじ。今時の神道者達の申さるゝ神道が誠の神道ならば世に神道程無用のものはあるまじと、予も思ふなり」(夜話172)
神仏儒共に当時の姿においては全体的に否定せられるのほかはないのである。
まず第一に神道はいかがであるか。
神道こそは、「豊葦原を瑞穂の国とし漂へる国を安国と固め成す開闢元始の道」たるものとして、仏儒に本来先立つわが国本源の道であるべきであるのに、今やその本源性はおおいかくされている。
「世に神道と云ふものは、神主の道にして、神の道にはあらず。甚だしきに至っては、巫祝の輩が神札を配りて米銭を乞ふ者をも神道者と云ふに至れり」(夜話63)。
さらに仏教はいかがであろうか。
 今の仏者は日々厚味に飽き、錦羅錦繍を纏うてゐるさまである(夜話171)。よしや一歩進めて「道体の高妙」を覚るも、塵世を厭い閑寂を楽しむをもって能事終れりとなすにとどまるのである。
第三に大学中庸論語等で早くより尊徳が親しんでいた儒教は、いかがであったであろうか。
幕府時代の一般的傾向として、当時の儒者は一定の流派に立ち籠りその権威のもとに他派を攻撃し、多読博識を誇りみずから高しとするのみで、儒教本来の面目たる「実学」性を完全に喪失し、実生活より遊離し尽くしたる超越性に終始するものが大多数であった。
他人を凌ぐためにのみ書を読み、人を言い伏せれば学者の「勤め」が立つと思うもの、人の問いに答えるための博学のみを事として実践躬行を省みざるもの、眼中食録以上の何ものもなきもの、現実を忘れて空虚なる超越性に安住するもの、かくのごとき当時の儒学者に対する批判は夜話や語録のいたるところに充満している。
実践躬行を通じて儒教より実に多くのものをみずから摂取してきただけに、尊徳は「実学」性を喪失した儒教の弱点を鋭く剔抉(てつけつ)して余すところをとどめないのである。
年少にして儒者の行動に対して疑いなきをえなかった尊徳は、「錐」をもって四書に対決するごとき(*)厳しき批判と主体的実践とを通じて、儒教自体より多くの真理内容を摂取し、自己の人格的主体性を生かす精神的エネルギーに化したのであった。

*「桜街拾実」(烏山藩菅谷八郎右衛門)には、「【7】読書については、少しの暇も無く、ようやく四書(大学・中庸・論語・孟子)を習ったぐらいだと聞きました。そのうち孟子は一切用いることはありません。若い時思ったことは、書を読むやからで世間で役に立つ者が少ないのは、きっと経書のうちに無益の言葉があるからだろう。もしよくない所があれば切り破って、よい所ばかりを抜き出したらよいと思って、錐を持って、大学・論語など熟読しましたが、誠に結構なことばかりで、一字一章も金か玉のようで、生涯行っても用いつくすことができない。このような経書を読みながら、どうして現在の儒者や学者は、身にも行い、国家にも行わないのかと不思議に思ったと申しておりました。」
「語録」214では、「私は年少のときから四書を読み、これを儒者の行うところと照らし合わせてみて、はなはだその食い違いを疑問とした。そこでひそかに、巻中どこかきっと道にそむいた言葉があるに違いないと思い、もし、仮に一字一句でも道にそむいた言葉があったならば、天下の書籍をあげて、その不純な箇所を削り、純粋な部分だけ残してやろうと思った。そこで小刀を手にしてこれを読んだ。ところが終編金科玉条であって、ついに一箇所も小刀を下すことができなかった。それからはこれを身をもって行い証拠だてること多年であった。」とある。「錐」ではなく、尊徳に親しく教えを受けた齋藤高行が記す「小刀」のほうが正しいように思われる。

自己の即物的主体性において真理の自証的充実を見出しえざるものは、いかに伝統的権威をもってのぞむものも断乎否定した尊徳は、自家の真理に対して牢乎たる自信を持していた。
「我が説が儒仏神と異なるところあるも、我が説に誤りなし」とさえ彼は断言するのである。しからば、彼自身の立場から見て、当時の教学の根本的欠陥はいかなる点にあったであろうか。
 尊徳の眼から見て当時の教学の最大欠陥は、それらが単に超越的であって実人生に触れえないということであった。当時の超越的教学は言葉だけの詮索を事として、活きた人生と社会から游離していたのであった。すなわち経験を離れ具体化を忘れた空虚な抽象的一般論に終始するものが多かった。現実を離れた一般論はいかに美しい外貌を装うとも空虚以外の何ものでもない。
このことは現実自体において鍛えぬかれていた尊徳の感覚にはおおうべくもなかったのである。
加茂の社人梅辻飛騨守が江戸において弁舌態度鮮やかに神典、天地の功徳・造化の妙等を説いたが、一般これに耳を傾けた尊徳の感想はつぎのごとくである、
「実に達人と云うべし。その説く処も大凡尤もなり。されども未だ尽さざる事のみ多し。彼位の事にては、一村は勿論、一家にても衰へたるを興す事は出来まじ。如何となれば其説く所目的立たず、至る処を実行するときは上下の分の立たず、上国下国の分ちもなく、此の如く、一般倹約をなしたりとも何の面白き事もなく、国家の為にもならざるなり、その他の諸説は、只論弁の上手なるのみ」(夜話46)。
一般論だけの口頭禅は無益のみならず有害ですらある。
 実に儒教的教学をもって施政の根本方針とした江戸幕府はもはや行き詰っているのである。
それ自身「実学」を標榜した儒学は、その実学性においていまや全然無なのである。
尊徳は疲弊した農村自体におい育っただけに、儒学をはじめひろく超越的観念的教学およびそれに立脚する政治の無力をよく知っていた。
「君民並に窮し国家衰廃に陥る。政刑ありと雖も之を済ふ能はず。三教ありと雖も之を悛(あらた)むる能はず」(語録470)。


上に文武の政あり、下に神仏儒の教ありて、しかも四海の民、日に窮するは、文武の政と三教との網よりもれるところから生じる患いにほかならない。
「夫れ我が道は邦政と三教を脱し来るの患を済救するものなり」(語録93)。(*)

*【93】方今天下泰平。上に文武の政有り。下に神儒仏の教え有り。治具ことごとく備わる。然らばすなわち四海の民、まさにその所を得、その生を楽しみ、必ず蕪田負債の患え無かる。然りしかして四海滔滔その患に苦しむ者有るは何ぞや。侯伯国家を治むる、百吏これを助く。すなわちまさに土地荒蕪、戸口消耗、負債山積の患え無かるべし。然りしかして侯伯その患に苦しむ者有るは何ぞや。神儒仏3家、おのおの修身・斉家・治国の道を説く。すなわちまさに負債家を失う患え無かるべし。然りしかして3家おのおのその患に苦しむ者有るは何ぞや。これ皆文武の政と神儒仏の教えとを脱し来るの患なり。その患を済救し、もって政教を補う。独り我が道有るのみ。それ我が道は邦政と三教とを脱し来るの患を済救するものなり。あに大ならずや。

江戸幕府の公認教学たりし儒学、キリシタン宗門圧迫の具たるに甘んぜる仏教等、いずれも時の政治権力の保護のもとに安きを貪り、厳しき自己批判とハツラツたる真理追求を忘れ去った超越的教学であった。
時代と実人生から游離した超越的教学の根本的欠陥を補い充たすものは、実に経験そのものに帰り、そこから出発する立場よりほかはない。ここに二宮尊徳の経験主義が牢乎たる根拠をもって成立するのである。尊徳にとっては、空虚な教学よりも充実した経験の方が遥かに重大であった。

       三
 かつて尊徳は宇津家で大神楽を見たが、その至芸についてつぎのように語った。
「この術の如くなさば百事成らざる事あらざるべし。・・・・・・聖人の真理この一曲中に備はれり。然るに之を見る者、聖人の道と懸隔すと見て、この術を賤しむ。儒生の如きは何ぞ。国家の用に立たんや、嗚呼術は恐るべし」(夜話18)。
山芋堀り鰻釣り篤農等の入神の技をたたえ、「永年刻苦経験して発明するものなり。技芸にこのこと多し。侮るべからず」と述べている(夜話22)。
その他鍛冶工・市井の侠客・馬丁の態度等がかえって彼の注目を要求するのである。
尊徳にとっては経験自体において耕され主体化され「身につけ」られたもののみが真理の名に値したのであった。
経験と工夫とによっておのづと光ってくる充実したものに対して、彼は鋭い眼と勘とをもっていた。彼のいわゆる悟道記録には、塩売りや百姓の女の言葉が「天理自然」を語るとなして書きとめられているのである(全集1巻360ページ)。
彼の感覚と関心とは封建治下にもかかわらず身分の高下を超えて即物的根源性を実現するものにのみひたすらに向かったのであった。
この点でも尊徳はゲーテを想起させるものである。彼の全人格は外形の虚飾を超えて、直接に充実した経験自体に向かったのであった。
「実功」が彼の価値の尺度であった。表面だけ高尚で内容空虚ないわゆる学問よりも、かえって下賎なものの経験のうちに生きている技芸の方がすぐれているとさえ考えられた。彼には真実への感覚が生きていたのである。居なる仮象に対しては虚をもって対するも一応差支えないが、虚はついに実に対すべからずと説いたのも偶然ではない(夜話120)。
経験と実人生とは、ごまかしと虚飾とを許さない。読書や記誦をもって能事終れりとするいわゆる学者のごとき存在は、彼の眼には甘いものであった。
実功なく活用を欠くものは、ほんとうの学問ではない。実人生に根ざし実生活に活用するもののみが真の道である。彼は一切の既成概念を離れて体験と経験につこうとした。
       四
 しかし彼の経験主義は単なる実利主義でも功利主義でもなかったのである。功利主義的立場の最後の目的はついに個人的利益を超ええないが、尊徳の経験主義の出発点をなすものは彼のいわゆる「人為(ひとため)」(*)の倫理にほかならない。自家の建て直しに挺身する実地正業の間に君公の直談表彰をうけた32歳の尊徳は、「自家の家業を励むことがなぜに村為になると言われるのであるか」とみずからに問わざるをえなかったのである。

*大久保忠真公は、二宮尊徳に桜町領の復興を依頼し、いわば先生を世に出した人である。
 文政元年(1818年先生32歳)の8月、忠真は大阪城代から老中となり、小田原領内に帰着した折り、11月に農政6箇条を公布するとともに、同月15日に酒匂川の河原で領内の孝子節婦奇特者を表彰した。
 金次郎も行いが奇特として表彰された。
 天保14年に先生が幕府に出した「勤め方住所伺いたてまつりたてまつり候書付」にはこうある。
「京都・大阪の在勤が9ヶ月に及んで、このたび小田原に帰着したついでに、郷中を見渡したところ何となく近年怠惰にながれているようである。このままではいよいよ困難なことになるであろうと、本当に嘆かわしい。これから老中職となると、小田原城に居住することもないだろうから、今回こうして参ったのが良い機会だから、一体の心がけのあらましをさとしておこう。詳しいことは、奉行たちから申し渡すから、一同油断なく励まなければならない。
1 風俗をつつしんで、世間の悪い習慣に流れず、一途に本心から精出して、良い習慣を失わないことが第一である。右の条々を一同に申し渡されて、さらにわたしには次のとおり直々に仰せになりました。
「かねがね農業に精出して心がけが良いと聞いた。その身はいうまでもなく、村為にもなり、近頃惰弱な風俗の中で、特に一段奇特なことであるからほめておく。
 役を勤めるものはその身を怠っては万事ゆきとどかないことにもなり、小作たちの手本にもなることであるから、いよいよ励まねばならない。」
 実にこの出会いのときの感激が、二宮尊徳を、一家を再興し、村の貧窮の者を助ける、いわば地域のリーダー的な役割から、内村鑑三氏が「生涯の贈り物」とたたえたような、日本を代表する偉人となった。

そこに見出された答えは、「人為」にまで高められざる努力はついに「吾身勝手のみ」となす人間の道の哲人的把握である。自己中心的功利的立場を根本的に超える「人為」の倫理こそ、人をして人たらしめる――かかる「道」の自覚が、爾後桜町15か年の悪闘苦闘にはじまる二宮尊徳一生のコースを決定するにいたるのである。真実の学の姿は「道」である。いわゆる経験主義は「道」にまで深まらねばならない。その「鍬鎌の辞」に曰く「吾朝、神代の昔、豊葦原を安国と平げたまひしより、今日只今に至るまで、国を治め家を斉え人命を養ふ、是より尊きはなし。」
この点において、二宮教学はまぎれもなく治国平天下の儒教的教義をその本質的契機の一として含むものである。
海辺の地を開いて売る深川の木村嘉七というものに会った尊徳は、彼をわが門下にも見ざる「大才」と称し「今少し志を起し国家の為を思はゞ大功成るべきに開拓屋にて一生を終るは惜しむべし」と語っている(夜話56)。
尊徳の仕法も一部からは「開拓屋」と同じもののように見られていたが、尊徳の実利主義の根底には「道」が厳として生きているのである。
「開拓屋」と天地懸隔する所以である。「道」を根本原理とする実功主義・経験主義である。
       五
 功利主義は自分一個の利害を中心とするものであり、尊徳のいわゆる「眼前の凡情」を超えるところのないものである。しかるに治国安民の道は自己中心主義の「執着」を超え天下後世のことを眼中におくものである。
ここに尊徳における「克己復礼」の儒教的立場は、仏教的解脱との結合を要求するのである。
「私欲に克ち」天理に帰するには、広く高き限界を打開することが必要である。
すなわち個人的執着の迷いを去り、いわゆる経験的でなく、過現未の三世を観通する悟道が要請せられるのである。
「悟道にあらざれば、執着を脱する事能わず」という如く、今や二宮教学はその一本質的契機として仏教的超越観照をもまた要請するのである。
真に経験を生かすためには、かえって経験を超えて「悟道」に上りゆかねばならない。
「不二の山のぼりつめたる夕には こころの宿に有明の月」
ここに一円清浄心が個人的執着の雲を払い視野を開き来たるところ、万物一元三世一貫の理を観ずる「悟道」の妙境が可能となるのである。
 しかしかかる悟道の高嶺は同時に現実に下りゆくべき限界境位にほかならない。悟道の妙境に観念的陶酔の甘夢を貪るは実は悟道に執着するものである。執着を脱する悟道に執着するは明らかに一つの迷執である。
「志を起し国家の為に」身をもって働く道を開くためにのみ、悟道が要請せられたのである。
山上の月に心を奪われ麓で働くことを忘れるものは、観念的夢遊病者である。
悟道に執着するのみで「道体の高妙を覚り塵世を厭ひ閑寂を楽しむ」をもって能事終れりとし、再び俗界に下り衆生済度に力を致さぬものは「徒らに延るのみで一向実を結ばぬ糸瓜(へちま)」の如きものである(語録421)。
「高遠隠僻」の悟道もそのままでは無用の長物であり、老仏の悟も「人生の迷惑」である(語録448)。さらに曰く
「若し夫れ悟を貴びて済度を務めざれば迷者と同じ」(同421)。
徒らに手のきれいな学問や悟道は無益有害であり、ついにはかえって「迷ひ」そのものでさえある。尊徳がしばしばあげる自作歌に曰く「ぶんぶん(文々)と障子に虻(アブ)の飛ぶみれば、明るき方へ迷ふなりけり」
かくて「悟道」の高嶺に一円清浄の月を仰ぎえたものは、その清浄一円の心をこの大地にこの体をもって彫り込まねばならない。
この間の消息に関して我々は尊徳の真骨頂を窺うに足る雄渾含蓄の文字をもっている。
「仏者も釈迦が有難く思はれ、儒者も孔子が尊く見ゆる内はよく修業すべし。其地位に至る時は、国家を利益し世を救ふの外に道なく、世の中に益ある事を勤むるの外に道なし。譬へば山に登るが如し、山の高く見ゆる内は勤めて登るべし。登り詰れば外に高き山なく四方共に眼下なるが如し。この場に至て仰ぎて弥弥(いよいよ)高きは只天のみなり。此処まで登るを修業と云ふ。天の外に高き物ありと見ゆる内は勤めて登るべし学ぶべし」(夜話102)
「緇徒(しと:仏者)悟を貴ぶは未だ迷界を免れざる也。既に悟らば則ち何ぞ以て之を貴ぶに足らん。之を高山に登るに譬ふ。その高きを仰ぐ者は未だ絶頂に至らざる也。其の悟を貴ぶ者は、未だ極度に至らざる也。既に絶頂に至れば、則ち四望して降り、既に極度に至れば則ち後迷界に入り、済度を務むるのみ。若し夫れ悟を貴びて済度を務めざれば即ち迷者と同じ」(語録421)。(*)

*語録【77】書を読む者すべからく人を済(すく)うの心を存すべし。何となれば書は人を済うの道を載するものなり。ゆえにこれを読みてその心を存せざれば、すなわち何の益かこれ有らん。それ博施・済衆は聖人の功用なり。今の学者、聖賢を仰ぐ、なお高山を望むごとく、及ぶばからずとなす。しかれども孳孳(シシ)よく勉めておこたらずんば、すなわちあるいは山頂に陟(のぼ)るべし。既に山頂に陟(のぼ)れば、すなわち展目・四眺。しかる後、また下らざるをえざるなり。書を読みて道を得。あるいは賢処に到らば、すなわちよろしく衆庶と偕にし、これを教えこれを導き、己を倹し財を推し、もって施済を務むべきなり。

孳々として努めて高きに上り、上りて仰ぐは青天のみという境地にいたれば、すなわち下りて衆庶と苦楽を共にし、勤倹もって世に譲り国を済うを念とせねばならない。
観念的なる語道は心身一如的なる人道にまで具体化せられねばならない。
「人と生まれて衆生を助くる道を勤めざれば、人にして人にあらず。」
高きに上りて視野を開く「悟道」なきところ執着心の低卑偏狭性は超えゆくべきもないが、同時にまた単なる観念的悟道にその心を虚脱し去って、この身をもって現実に「人為」の道を全くすることなければ、人はまたその身を喪うのである。
高きに上りて人間的凡情を棄て去るとともに、現世に下って人のために働く往還二重の道に開ける遍偏相即心身一如の道を尊徳は至誠躬行の道と名づけるのである。


 かくて、経験の狭き限界を脱却するために悟道の高嶺に登りゆくとともに、悟道の清浄境を生かすためには、再び現実に下り来たらねばならない。
天地一円の心を体して現実のまっただ中に工夫を尽すことが、真に人をして達せしめるのである。
尊徳によれば、堯舜釈尊ともに師なくして聖仏と称せられる所以のものは、「その知らざる所を思ひ、その能くせざる所を務め、千酸万辛以て百姓を愛恤する」が故である(語録349)。
かく現実そのものを耕すに天地を貫く一円仁の心をもってするとき、ここに天人一貫の道が開けるのである。これこそはまさしく「哲学」の名に値いするものにほかならない。さきに悟道一円の心を体して現実界に下る道を辿った我々は、今や現実自体において結晶する天人相即心身一如的統一としての「哲学」を見出すのである。
この点を切々たる現実体験の裏づけにおいて物語るものは語録214である。
曰く「野州の廃邑を治むるに及び、その民常産無くして常心を失い、風俗頽廃田野荒頓、貧困已に極る。余、夙夜苦心労力以て之を治む。然るに東を治れば則ち西敗れ、左を治れば則ち右敗れ、復之を如何ともするなし。竊(ひそか)におもへらくこれ蠻貊なりと。乃(すなわ)ち言忠信、行篤敬に止まり、遂に之を治むるを得たり。是に於て聖語の差わざるを知る。この時に当り、儒者仏者を論ずるなく、里正伍保に至るまで、周(あまね)く之を諮詢するも、亦皆與(とも)に議するに足らざるなり。独り諸(これ)を学庸〔大学・中庸〕論語に諮詢し、遂に以て功を奏するを得たり。」
 西明寺入道の巡国記以来、各種の風土記が語を極めて土地人柄の荒涼を説く下野の国と取り組んで、十有五年間悪戦苦闘よく三か村を復興するとともにみづからも大成した桜町時代において、あらゆる現実的経験を尽してなおも道の打開を見るべくもなかったとき、尊徳は古典に結晶せる天人一貫の道としての「哲学」によって最後の境地に透入したのであった。
あらん限りの経験に訴えてなお功なきとき、経験はついに「道」といい「哲学」という。
これは人生の閑葛藤事ではなく、骨肉心肝に徹してはじめて開けくる「一なるもの」である。
尊徳は経験に徹し、道に深まり哲学に進まざるを得なかった。
哲学を笑いうる経験主義は浅薄なるが故に幸福なる立場の産物である。
尊徳にとっては経験を裁く最後の法廷が天人一貫の道としての哲学であった。
つとに「幼年の困難心魂に徹し骨髄に染む」の経験に出発し、上に固陋なる吏僚下に蒙昧なる田夫野人の間に立ち微々たる身分をもって仕法に従事し「醜俗に交はる時は如何に堪忍するとも忍び難きこと多かるべき」経験に終始した尊徳にとっては、「道」と哲学とはあってもなくてもよいものではなかった。
現実に即して自己を究め「我身の天」に自己を還元するとき、天地の「間」に立つものとしての人の道は天人一貫の哲学として証示せられる。
現実に徹し自己を究める即物的主体性の立場において、天地人を一つに貫く「一円相」の哲学が成立したのである。
彼の窮極の真面目が経世家よりもむしろ「哲人」に求められる所以である。
彼は経験に徹し世塵を浴びる毎に、塵に反映する「永遠の光明」に向わざるをえなかったのであった。
「善く問ふ者ありてこそ即ち理を尽し得」とは尊徳の言であるが(語録201)(*)、全人格がその死生を賭して問うごとき経験に透入するときこそ、天人一貫の行道としての哲学または「道」が答えるのである。

*語録【201】孔子の問に答うるや、一を問えば、則ち一を答うるのみ。甚だしく言に吝なるごとし。けだしその言の深浅、問う者の精粗に在るなり。余もまた善く問う者無ければ、則ち理を尽すあたわず。小子の問い、譬えば一髪を以て洪鐘を撞くごとし。烏んぞ真音を発するを得ん。孔子曰く、これをいかん、これをいかんと曰わざる者、吾れこのごとくいかんもするなきのみと。宜(むべ)なるかな。

困難なる局面の真相に触れるだけ、「道」を思い「哲学」に志さずにはいられないであろう。
尊徳の哲学はかかる消息の生きた歴史的証明である。
経験のうちにあって真に行為するためには「その本に反(かへ)りてその源を詳かにす」べきである。「能々本を知りて勤めたまへ」。
道徳の根底には一円循環してやまぬ天人一貫の理法がある。この理法に徹しそれに即して行う故に、人間の道はただ個人の私道たることを超えて天地に通じ歴史的となるのである。
今や哲学的思索は閑事業でなく、生命自体が証(あか)し来たる天人一貫の道である。
進みか退くか、生死の関頭にまで追いやられた桜町仕法において、成田山参籠を大きな峠として尊徳の哲学的思索は急速に深まったことは、日記が明らかに示し諸家が指摘するとおりである。
天保2、3年頃より4年頃までの日記に悟道的思索が深遠豊富な断片を多くとどめ、尊徳独自の道歌が多く作られたのである。
生活分裂の苦悩の間にその身を尽しその「天」にいたるところにのみ、天人一貫の道として哲学が可能となるといえよう。
真実の哲学が生命の苦難を救うとともに、生命の苦難が哲学の深底を開くのである。
かくも多忙多難なる生涯を通じて尊徳が深き哲学的思索を行いえたことは不思議ではない、むしろ生命の道を行く哲人には天人一貫の道を措いて生命の道はありえなかったのである。
生命の道を阻まれる経験を人一倍深く味わった尊徳は、「心田」を開いて「我身の天」にいたることをもってすべてのはじめと考える哲人であった。


 尊徳にとっては、仁義礼智信の文字をもてあそぶかぎりの「青表紙」の学問は一顧に値いしないものであった。
実生活を離れた超越的教学に関するかぎり、尊徳は決然として経験主義を選ぶのである。
しかしながら、彼の実功主義と経験主義の根底には「哲学」がある。
これは実に彼が文飾や戯論を去り、実功につき経験に徹するの極、達せざるをえなかった境地である。
経験に徹しぬくとき、経験の底を割って経験以上のものが天人一貫的に生きてくるのである。
すなわち「道」に達することのみが、経験を生かすのである。
経験は「道」によって生命と意味とを吹きこまれるのである。
経験は「道」によらざれば、その最後の窮境を打開しえない。
経験によって富まされ深められるとともに、経験に「意味」を与える天人一貫の哲学こそ、尊徳のいわゆる至誠躬行としての「学」にほかならない。
経験より悟道の高嶺に上り悟道より現実に帰る上下相即不止不転の天人一貫的一円行道に真箇の哲学が現成するのである。十方空を領得せしめる悟道なくば、我欲の迷執は人倫界の成立を阻むであろう。同時に三界城裏に「迷い」は入る人道なきときころ、高妙清浄境に住する悟道も空虚なる名を擁するにすぎない。まさに「迷悟一円」迷におらず悟に止まらず不四止不転の至誠を貫くのが、天人一貫の行道にほかならない。(1)

(1)二宮翁夜話【70】ある人が、道を論じて筋道が通っていなかった。尊徳先生がおっしゃった。
「あなたの説は、悟道と人道と混同している。悟道をもって論ずるのか、人道をもって論ずるのか、悟道は人道に混同してはならない。なぜかといえば、人道のよしとするところは、悟道にいわゆる三界城(迷いの世界)である。悟道を主張すれば、人道は軽蔑すべきである。その間を隔てること、天地と雲泥のようである。だから先にその居場所を定めて、それから後に論ずるがよい。居場所を定めないと、目がなき秤(はかり)で重さを量るようで、終日弁論しても、その当否を知ることはできない。悟道というのは、たとえば今年は不作であろうと、まだ耕さない前に観ずるようなことをいう。これを人道に用いて不作であるから、耕作を休もうというのは、人道ではない。田畑は開拓してもまた荒れるのは自然の道であると見るのは、悟道である。そして荒れるからといって開拓しないのは、人道ではない。川のそばの田畑は洪水があれば流失するということを平日に見るのは悟道である。そうかといって耕さず肥料をやらないのは、人道ではない。
悟道とはただ自然の行くところ見るだけであり、人道は行き当る所まで行くべきものである。論語に、父母につかえては繰り返しいさめ、その志が通じないときは、敬って違わない、努力して怨まない、とある。これが人道の極地を尽したというべきだ。俳句にも「いざさらば雪見にころぶ所まで」という。これがその心である。だから私は常に言うのだ。親を看病して、もはやおぼつかないなどと見るものは、親子の至情を尽すことはできない。魂が去って体が冷えて後も、まだ全快あろうかと思う者でなければ、尽すと言ってはならない。だから悟道と人道とは混合してはならない。悟道はただ、自然の行くところ観じ、そして勤めるところは、人道にある。人間の道とするところは、仏教にいわゆる三界城裏(迷いの世界)の事である。十方空を唱える時は、人道は滅するであろう。善知識(僧侶)を尊び、娼妓(しょうぎ)を賤しむのは迷いである。そうはいってもこのように迷わなければ人倫は行われない。迷うが故に人倫は立つのである。だから悟道は人倫に益はない。そうであっても、悟道でなければ、執着を脱する事はできない。これが悟道の妙である。人倫はたとえば繩をなうようなものだ。よりがかかるのをよしとする、悟道はよりを戻すようなものだ。だからよりを戻すことをもって善とする、人倫は家を造るようなものだ、だから丸木を削って角材とし、曲ったのをためて直とし、長いのを切って短かくし、短いのを継いで長くし、穴をうがって溝を掘り、そして家を作るのである。これはすなわち迷うが故に三界城内の仕事である。それを本来なき家なりと破るのは悟道である。破って捨てる故に十方空に帰するのである。しかし、迷いといい悟りというのは、まだ徹底していない。その本源を極めるならば迷いも悟りもともとない。迷いといえば悟りと言わざる事を得ない。悟りといえば迷いと言わざる事を得ない。本来迷いと悟りで一円の世界である。たとえば草木のように、一粒の種から生じて、あるいは根を生じて土中の潤いを吸って、あるいは枝葉を発して大気の空気を吸い、花を開いて実を結ぶ、これを種から見るときは迷いというべきだ。そうかといって、秋風にあえば枯れはて本来の種に帰る。種に帰ったといっても、また春陽にあえば枝葉花実を発生する、そうであれば、種となったのが迷いか、草となったのが迷いか、草に成ったのか本体か、種になったのが本体か、これに因ってこれを観るに、生ずるのも生ずるのではない、枯れるのも枯れるのではない。そうであれば無常も無常ではなく有常も有常ではない。皆旋転して止まない世界に住するものであるからである。私の歌に「咲けばちりちれば又さく年毎に詠(ナガ)め尽せぬ花のいろいろ」と詠んだのもその心だ。一笑するがよい。

 今や哲学は迷悟相即心身一如的統一を天人一貫の一円行道において現成し、悟道と人倫、普遍と特殊とを帰一せしめる。
まず悟道の遍なきところ我々の眼界は徒らに狭く、単なる経験主義に堕するであろう。その限り哲人尊徳は広く万象に通ずる一理を窮め、特殊を貫く一般を求めたのである。
「予は唯一理を明かにすることを尊むなり。一理誠に明かなれば万理に通ず・・・・・・孔子は一以て之を貫くと言はれたり・・・・・・(一貫する一理を見ずして)徒らに仁は云々、義は云々と云ふ時は、之を聴くも之を講ずると共に無益なり」(夜話残篇26)。
語録193(*)が語るごとく、万理に通達せざるものは実に経典の名に値いしないのである。

*語録【193】孔子曰く。民の利する所に因りてこれを利す。これ恵みて費えざるにあらずやと。これを稲を培うに譬う。稲の利する所に因りて肥を澆(そそ)げば、則ち秋実多し。あるいは童子価十銭の玩器を求む。これを易るに二十銭の紙を以てす。又あるいは鮮魚をおくれば、則ち人必ずこれを取る。これをこれ恵みて費えずと謂うなり。もしそれ餒魚をおくれば、則ち人必ずこれを捨つ。玩器を与えば、則ち長物のみ。これ則ち恵みて費えるなり。また曰く。仁を欲して仁を得。またいずくんぞ貪らんと。これを粟と菽とに譬う。粟を欲して糞を澆げば、則ち粟を得。菽を欲して糞を澆げば、菽を得。その欲する所得ざる無し。また何に貪らん。けだし経書万事に通ず。通ぜざれば則ち以て経典と為すに足らざるなり。

しかしただ一理のみを追い普遍を求めて、それが万象を貫き特殊のなかに生きていることを体得しないならば、同様に誤りである。
このことは上述の梅辻飛騨守の一般倹約論に対する批評が明らかに示すところである。
一般なき特殊は狭くして低級であり、特殊なき一般は美しくとも空虚である。
今や一般と特殊とは内面的相即性において動的統一を見出さねばならない。
一円遍満の心と局所凝集の体が相互に貫き含む心身一如的統一を現ずるがごとく、一般と特殊、悟道と経験とは生きたる内面的現実的統一を実現せねばならない。
三世を観通する一円遍き語道の心は刻々現在の我が身の立脚点に即して生かされなければならない。
動きゆく現在自体にその自由無礙の生命を現じ来たるものが全き意味の普遍であり永遠である。
永遠と時間とは刻々創造的にその生を新らしくする「永遠の現在」において相互に帰入して「一なるもの」を現成するのである。
尊徳は永遠の理法として古典に結晶している哲学と時間的経過とを氷と水とに譬え、両者を主体的に円融せしめるものを「胸中の温気」と表現している。
本質を同じうしながらその相貌を異にする永遠の「大道」と現在の経験とは、尊徳のいわゆる「胸中の温気」「永遠の現在」に住する人格的主体性において、天人相即の円的統一を現ずるのである。
夜話62に曰く、「大道は譬へば水の如し、よく世の中を潤沢して滞らざるものなり。さる尊き大道も書に筆して書物となすときは、世の中を潤沢する事なく、世の中の用に立つ事なし。譬へば水の氷りたるが如し、元、水には相違なしといへども、少しも潤沢せず。水の用はなさぬなり。而して書物の注釈と云ふ物は又氷に氷柱(つらら)の下りたるが如く、氷の解けて又氷柱と成りしに同じ、世の中を潤沢せず、水の用を為さぬは、矢張同様なり。さて此の氷となりたる経書を、世上の用に立てんには胸中の温気(うんき)を以てよく解して、元の水として用ひざれば世の潤沢にはならず、実に無益の物なり。氷を解かすべき温気胸中になくして、氷のままにて用ひて水の用をなすと思ふは愚の至なり。世の中神儒仏の学者世の中の用に立たぬは是れが為なり、能く思ふべし。故に我が教は実行を尊む。」
「胸中の温気」をもって経書に結晶する「大道」を溶かし活用に転ぜよとは純熟せる体験のみがよくする語であろう。記誦博学に甘んずる衒学の徒に欠けて尊徳に具わるものはただ「胸中の温気」に発する活機のみであるが、その差たるや実に白雲万里である。経典に結晶する永遠の哲理を溶かして即物的活用に転ずる主体的自由において「大道」は現前する。真箇の哲学が求める普遍なるものは、一切の特殊を円融して個性的統一において湛える「胸中の温気」(2)として証示せられる無の主体性にほかならない。

(2)夜話62と全く同一主旨を説く語録74(*)は「胸中の温気」にあたるものを「通明の温心」と書いている。この語につきては小林秀雄氏「文学と歴史」中に収める「文学と自分」参照。

*語録【74】経書は道を載するものなり。そのこれを書に筆する、なお水始めて氷るごとくなり。朱子注脚を下す。なお氷箸、垂下するごとく、ますます堅凝解しやすからざるなり。いわんや細註のごとき、嘔吐もって聖経を汗すに似る。難いかな、その蔽固の冷心をもってこれを解するや、通明の温心をもってせば、すなわち渙然氷釈。いずくんぞ注脚をこれ用いん。何ぞや、人倫日用当行の道なればなり。


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