12344361 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

GAIA

GAIA

尊徳研究における原典批判の問題2 内山稔

尊徳研究における原典批判の問題(四)-尊徳思想の正しい理解のために- 内山稔

(「かいびやく」昭和53年12月号)

第3章 『二宮尊徳全集』第一巻(原理編)における自筆原稿の編集について(一)

―天保四年自筆日記の場合―

すでに前章で述べた通り、この天保四年の尊徳自筆日記全集刊本の本文には欠漏など
多くの問題点がみられる。全集以外の刊本としては『二宮尊徳遺稿』の中の「日記録」(同251ページ以下)及びいわゆる解説全集と呼称されている『解説二宮尊徳翁全集』(日記書翰篇)の中の「尊徳詩藻日記」(同247ページ以下)、それに佐々井信太郎編『二宮尊徳真筆選集』(昭和10年)中の「日記」の項(同76以下)がある。
このうち、解説全集は全く全集を底本としているので同じ誤りを犯しており、特にここでとりあげる必要はない。

遺稿はあくまでも抄録であるから、そのことを念頭に置いてかからなければならない。
収録されているのは原本の最後の部分だけで、全集刊本で言うと、第1巻515頁以下526頁までと、同481頁以下のうち一部が省かれている。
どこが省かれているかを全集と比較してみれば直ちに明らかとなる。
全集1-481以下の二つの断章は原本では同1-526につづくものなのであり、その点遺稿が原本に忠実である。
遺稿251頁及び252頁にはいずれも「天保四年二月」と断章の前に日付が記載されているが、これは原本にはなく編者尊親の挿入である。
全集では「以下日記の体をなさず随筆の如く順々に書きつけてある」(1-515)と註記して、日付の記載のないことを断ってある(同517)。
遺稿並びに全集も共に誤りを犯しているのは(遺稿255頁、全集1-520)、「天保四年巳八月四日朝書」とすべきところを、九月四日と読み、そのために原本の記事記載の順序を改めて編集していることである。確かに原本を一見した
ところでは「九月四日」としか読めない。九の字が墨黒々と書かれているからである。
しかし、よく観察してみれば判読できるように、尊徳が「天保四年巳九」まで書いて誤りに気付き、改めて九の字のところから「八月四日朝書」と書き足していることがわかる。つまり、「九月四日」と編者が判断しているため、刊本ではいずれもその日記に従った編集をされているが、原本では天保四年八月九日の日記の前に記載されているものなのである。この八月四日の記事の前後がいずれも同一の半紙に書かれていることからも、綴じるとき間違えて原本に挿入されたわけでないことは明らかである。
また、同日の記事中(遺稿256頁7行目)、「若之をみんと欲するもの」とあるところは、正しくは「若空をみんと欲するもの」とあるべきなのである(1)。

  (1)この点全集の本文は正しいが、「は」の字が加えられている。

 真筆選集が収録している日記は、同じく天保四年の自筆日記中正月26日以降のものの抄録である。とにかく尊徳の自筆稿本の写真がこれだけ多く集められているのは他に無いので、研究上極めて貴重な選集である。
先に指摘した「八月四日」の日付の問題も本書によって確かめることができる(同96参照)。

 以上述べた日記の刊本はいずれも抄録であるが、全集では勿論日記全巻の収録を、
それも原本に忠実に従った本文による収録を編者は意図したはずである。
それにもかかわらず脱漏があり、間違った編集があり、配慮に欠けたところが多く見られて誠に残念である。

(一)本自筆日記の位置づけについて

 本自筆日記は尊親によって「二宮尊徳翁自書」と表題をつけられ、製本(和綴じ)されている。巻末に次のような奥書きがある。

「此書は天保四年の日記とあれば尊徳翁御年四十七の書なるべし。巻中大に講究すべき事もあれば旁製装をかへ、我家の宝典となす。

  明治二七年六月   二宮尊親 印」

なお、原文の表紙には

「    下野国芳賀郡大内庄物井村
         宇津はん之助役所内
   天保四年癸巳年日記
        大久保加賀守内
             二宮金治郎」

とある。通称金次郎とされているが、尊徳自身は常に金治郎と記名している。

 ところで、本自筆日記は、刊行・配本の都合上既に公刊されている第35巻収録の自筆日記、文政7年から天保3年まで、及び天保5年のもの合計11冊(別17番から別27番まで)と合せ、例えば解説全集における「尊徳詩藻日記」のような編集方針―と言っても抄録ではなく―に従って刊行されることが一番のぞましかった。
そうした編集によってのみ初めて我々は役所日記からは到底知ることのできない尊徳の苦闘の跡を、その内面生活を、特に彼が思想家として思索した跡をたどることができるのである。
ところが、編者も報告している通り、本自筆日記の所在が最後の最後まで判明せず、全集完結の直前、昭和6年8月に至ってようやく発見されたのである。
こうした事情から天保四年の自筆日記だけが別の扱いを受け、第一巻に収められることになった。
編者はこの書が日記とは言いながら「殆どその大部分が翁の悟道に関する研究記録であって、偶然の幸にとこれを悟道理論草案の下に編入した」のである(1-416、解説)。
これはこの際誠に妥当な取扱いである。ただ本自筆日記の重要性を正しく評価するならば、第一巻(原理編)、「其一 根本原理、は 万物発現進化並に悟道に関する書類、はノ二 悟道草案」に続いて別項目を立て、例えば「はノ三 天保四年自筆日記」とでもすべきであった。
第一巻の目次には 「はノ二 悟道草案
    悟道草書帳、未定稿、悟道理論草案、
    同                   」

とあり、この最後の「同」が本自筆日記の編入を示す文字なのである。
従って、目次を見ただけでは「三世観通悟道伝」の場合の如く(2)、別内容の「悟道理論草案」が二部存在すると受け取られてしまうわけであり、本自筆日記がどこに収録されているかは判然としないことになる。

  (2)同一書名で内容の異なる原本が2冊ある。今市の謄写本全書では上巻・下巻
     と区別してある。全集中先に編集されているのがその下巻で、上巻は後に編集     されている。

 自筆日記中最も内容豊かで、深い思索の記録である本書が、とにかく全書第一巻に編入されて公刊をみたことを特に喜ぶものである。若し本書が他の自筆日記と一緒に発見されていたら、編者は恐らく全自筆日記を一括して第35巻(雑輯)に収めてしまったものと思う。
先にも述べたように一括して公刊するのが最も望ましいものであるが、それは雑輯としてではなく、日記の別 として一括するということなのである。
とにかく、尊徳に関心を持って研究した人々も従来は第一巻と第三六巻(門人集)を読めば充分と考えていたのが実状なのであるから、本書が第三五巻中に収められていたら、特に篤学の士以外には本書を読むことはなかったと思われる(3)。

  (3)例えば西晋一郎の講義を筆録公刊(二宮尊徳翁の道徳経済思想、昭和12)した     水野清はその序文で次のように述べている。
     「二宮尊徳全集は36巻の膨大なもので且つ高価なものであるので、同学の士は     此の中第1巻と第36巻位を読破さるれば思想を知る上には充分であろうと考え     られる」と。この2巻さえ読まない人が多いのが現状である。

編者は解説の中で本書が第一巻に編入されるに至った経緯を説明した折、本書の前後の自筆日記が第35巻に収録されていることを併せて指摘し、その攻究をうながすべきであったが、残念ながらそれについて何の言及もない。この点抄録ではあるが―但し、天保四年の部は全巻を収めた―解説全集を「尊徳詩藻日記」を通して読む方が、尊徳の思想家としての発展の跡をたどるには便利である(同249頁から312頁)。

(二)全集刊本に脱漏している本文

 下程勇吉著『二宮尊徳の人間学的研究』の見返しにある記事及び道歌が全集には漏れていることは既に述べた。

 実はこれはむしろ編集上の配慮と関係することなのであるが、推敲・改作のあとを知る手掛りを何の註記もなく割愛している点が問題である。
勿論道歌の場合には推敲・改作の様子がわかるようにしてある場合もあって、抹消した部分についての取扱いが不統一である。
例えば正月十七日のところで(1-491、9行目につづいて)、

「花ハ実ヲおもふ 実ハ生をおもふ 生ハ木を思ふ
 木ハ花ヲおもふ 以為一木           」

の二行が抹消され、次にその改作

「花の気ハ実ヲおもふ 実気は生ヲおもふ
 生の気ハ木ヲおもふ 木の気ハ花ヲおもふ
 以為一木                   」

の句が接続しているが、全集ではこの抹消された二行については何の注意もはらわれてはいない。この日は一貫して気と体との関係について思索しているのであるが、これは明らかに小谷三志の影響によるものであり(4)、「花ハ」を「花の気ハ」と改めて「気」の字を加えていることは重要である。

 また、二月一日(1-504参照)に尊徳は

  ◎〔中の丸は黒丸〕一喰呑ときると住居の三ツ徳
    すぐる罪にぞ身はせまりけり

  ○一喰呑ときると住居の三ツのとく
    わする罪(とき*)にぞ身はせまりけり (*ルビではなく推敲のあと)

   一喰呑ときるとすまいの三ツの徳
    すぐる時にぞ身はせまりけり

   一喰呑ときると住居の三ツ気に
    花さき実法此身なりけり

  ◎〔中の丸は黒丸〕一喰呑ときる(と)住居の三ツ根に
    花さきみのるこの身なりけり

   一天と地と人のなさけと三ツの徳
    忘る罪にぞ身はせまりけりなん

   一天と地と父母の恵みの三ツの恩
    わする時にぞ身ハせまりけりなん

  ◎〔中の丸は黒丸〕一あめつちときみと父母との三ツ恩
    忘る時*ぞ身はせなりけり(*「罪にぞ」を改め)

と書き込み、このうち四首を選び、さらに第二首もとらず、結局◎〔中の丸は黒丸〕の三首以外は消した。従って、編者は全集にはこの選ばれた三首だけ採用し、他の五首については何の言及もなく、註記もせず割愛してしまっているのである。
さらに、523頁の最後の二行のところは

  一扠鹿は元より山に生れ、山に住べきものなれハ、山にすむがよし、〔里に出る
   事甚だ悪し〕、山にすんで云々

とあり、原文では〔 〕カッコ内の句は抹消されてあり、全集では本文に入れてはいない。

 同頁三行目、小活字組のところで最後の句が原本では「又気々合而火水、又気々合而風土なり」とあるところ、傍線の句が脱漏している。こうしたことはかなりあり、ここで一つ一つ列挙することはできないほどである。

 (三)編集の誤り

 遺稿との関係で既に指摘した通り、全集1-520に「天保四年巳九月四日朝書」とあるのは「八月四日」の誤りであり、この日の記事は当然原本通り、「巳八月九日書」(1-517)の前に編入されなければならないのである。

525頁最後の行が「次 又曰天地間生し(欠文)」となっているが、これは編者の重大な誤りである。実は524頁最後の五行、」すなわち、「又曰、人天地間生し天地間の物を喰、云々」の断章がここに接続するのである。そして、525頁の円図及び「天地商人売買行道時節鏡」以下の句と共に、本自筆日記の末尾にこなければならないはずである。

ということは、526頁、九月二十日(実は九月十二日とするのが正しい)(5)の日記部分は520頁の9行目に編入されなければならない。
なぜ編者がこんな誤りを犯したのか、我々は理解に苦しむところである。
なお、原本ではこの526頁の記載につづいて、二つの断章が書き込まれているのであるが、編者はその二篇を「悟道理論草案」の末尾に編入、「以下の二つは悟道に関するものなるを以て之を付属せしむることとした」と註記しているが(1-480以下、特に481参照)、これは編者の重大な誤りである。日記の部はまず原本通り忠実に編集し、編者の考えるように悟道に関する重要な断片であるから再録するというのであれば、どの日記からの再録かを明記して、ここに編入すべきだったのである。ついでながら、481頁2行目にゴチックで7の番号を入れて読まなければならない(1-462、目次参照)。

以上のことをまとめて、本自筆日記の巻末の部分(1-515以下)を原本に従って改訂するならば次のようになる。

(515頁4行から517頁3行まで)
ある在所きん村一ツの大川あり、・・・・・・・・・・・・(※)

※「「ある在所きん村一ツの大川あり、此方の村里の人々は彼向岸を川向かうと、向村へ渡りて向村の里人にきけば、我村方を川むかうと申也。
本来川むかうと申村方は、いづれの岸か河むかうと申候哉御尋申候。
河向と申候岸は其方也。
いゑ私は此川むかうの何村何と申所、長百姓長十郎と申者、倅長太と申者御座候。
いやその長太殿かいはく
本より河むかう申候、御前の御村此里開発に相成候時、天竺より御出被成候而、御取立被成候様此方村々大小百姓男女共●(口に彦)申伝候其御倅なれば・・・
其貴長百姓の倅にむまれ、御不足もなき御身分しらずあちらへ渡り、こちらへ渡り、川向の本来を御尋被成候内に日がくれます。
・ ・・こちらが河向か、そちらが河むかひか、御前さんあり、私あるゆへの、御前さんと私なければ本来河は只河なり。
こちらはこちらそちらはそちら、このとりあつて名なきところなり。
只々御前さんは御前さんのお御先祖よりなされきたりたる御家業専一に被成、私は私の先祖より伝りたるしようばいをいたし、これまでの通り炭薪塩茶何様何品なりとも御手紙さへ被遣候へば、御用次第差遣可申候。
又御前の方よりは、麦米大豆小豆其外雑穀年々田畑に御作り被成御入用次第御引被成余候品御おくり被下候へば、此岸町人共海辺者初、こちらの山おくの真木切、炭焼共迄一同相助り可申候。
それがためには、天竺のほうも我岸に聞用、日本の万物其国に渡り、御たがいになかよくくらし居候間、御先祖たちのなし被置たる通りに万代くらし向村の事はあらため申間敷候。
其本々はありて無きのみ、有りて無きのみ。」

(517頁4行から9行まで)
夫今土中堀り我々土中入、左右前後より土を掛け埋られて・・・・・・・

(520頁9行から524頁7行まで)
天保四年巳八月四日朝書
一本柱を立、曲直見ん(と)ほつするもの、そのばしりぞき・・・・・・・・・・

(517頁最後3行から518頁4行まで)
巳八月九日書
夫世間を見るに人間其外万生のもの、みな戸板ニ土人形を作り・・・・・・・・・・・

(518頁5行から同11行まで)
巳八月九日夜
    元 国民を治る御代の人ありと
         今日ききしより待もわびしき
    直 国民の安らく道を開ける
         人と聞せば待もわびしき
    ・・・・・・・・・・・

(518頁最後2行から519頁7行まで)
巳八月十日
一万物生居事は一円空の中あり、此有事能々取糺見るに・・・・・・・・・・・・

(518頁8行から520頁8行まで)
巳八月十日
一人身のうへ、おんしうも受けずただ居時ハ・・・・・・・・・・・

         今日ききしより待もわびしき


(以下略)

尊徳研究における原典批判の問題(五・完)

―尊徳思想の正しい理解のために― 内山稔(「かいびやく」昭和54年1月号28巻1号)

  第3章 『二宮尊徳全集』第一巻(原理編)における自筆稿本の編集について

―二宮尊徳翁自筆草案の場合―

 二宮家から国会図書館に寄託されている原本を読んだとき、非常におどろいた。
第一巻(原理編)所載の原本中に尊徳自筆の稿本はなく、いずれも不退堂、寺門静軒、あるいはその他の門人たちによって浄書された稿本・断片類、さらに編者佐々井信太郎及び他の筆耕者による筆写原稿だけだったからである。
これをさらに調べていくうちに、原稿用紙などに筆写されているものの多くが、前章で言及した天保四年の自筆日記と本章で述べる自書草案からのものであることが判明した。そこで神戸二宮家に秘蔵されていたこれら二つの稿本を詳しく調べ、また尊親編纂の遺稿、さらに全集と比較対校したところ次の点が明らかとなった(といってもまだ中間報告的なもので、一つの問題提起にすぎない)。

 我々は本自筆草案を「尊徳のパンセ」と呼ぶにふさわしい稿本であると考えているが、それは多忙を極めた日常の激務の中で尊徳が折りにふれて書き留めておいた自らの思索の記録であって、必ずしも体系化されていない断片集だからである。
本稿本天保5年及び天保6年の間に成立したものと思われる。もっと期間を限定するとすれば、天保5年3月以降同6年11月頃までと考えられる。
全集第35巻に収録されている天保5年の自筆日記が同3月3日まで記入されたもので(35-471)、本自筆草案中には午〔天保5年〕5月10日朝と日付の書き込まれた断片があり、また同6月19日付新井新兵衛宛書かんの自筆草案があり、さらに役所日記同年8月13日の項に記載されている小田原の江戸家老早川茂右衛門へ送った「蒔米種 生米草云々」の歌の草稿が含まれているからである(3-320、真筆選集6以下)。
外に12月7日付早川茂右衛門宛書かんの自筆草稿が含まれているが、これは多分天保5年12月7日のことであろう。他方未〔天保6年〕10月26日の日付が書き込まれた断片がある(1-394、真筆選集38)。なお、メモ用に使用されている反古紙から推定して稿本「大円鏡」(1-63以下)が成立して以後のものであることは明らかである。
少なくとも本自書草案に使われている反古紙の中には上記「大円鏡」と同筆の浄書本文がいくつかあり、例えば「天地之図」「日月之図」と言った全集の底本原本に欠けた部分の浄書本文が含まれているのである。

 次に内容からみて本自筆草案は天保四年の自筆日記とかなり趣きが違うことに気付くであろう。自筆日記がどちらかというと、一円相哲学の完成へ向っての思索の跡を示すものであるとすれば、本自書草案は報徳思想の体系化、報徳訓の完成・展開へ向っての思索・攻究を綴り、さらに天道・人道論及び万物発言に関する随想を記したものと言ってよい。要約的に言うならば自筆日記が主として『三才報徳金毛録』の前半部にかかわるのに対し、自書草案は後半部、特に「報徳訓」の成立と深い関わりがあり、さらに金毛録以後の報徳思想の実践的展開の理論を含んでいると言うことができる。
特に尊徳の哲学・倫理思想の特異性を語る者たちが等しく、必ず言及する「天道と人道」の理論は本自筆草案の中で最も明瞭に展開されている。
しかも、だいたい天保6年の断片とみられるものにおいて展開されているのである(佐々井信太郎著「二宮尊徳の体験と思想」38頁以下)。

ところで、本自書草案は尊親によって
『二宮尊徳翁自書草案』
と名付けられ、巻尾に下記の由来が付されて和製製本されている。すなわち
 「此書は元と仮りに綴て二冊となしあれと、尊徳翁の時に発明されし事を筆されしものと見ゆれは、巻中大に講究すへき事もあり、旁製本して我家の宝典となす
 明治廿七年六月  二宮尊親 ㊞  」

 仮綴二冊のものをまとめて製本したとあるけれども、いつの時代に誰によって仮綴されたか不明であり、どこまでが前半部の一冊で、どこからが後半部の一冊なのかまだ確定できない。使用している反古紙が横張のものもあれば、縦張のものもあり、また内容もまちまちで、貼り紙をしたものもある。これは今後の攻究にゆだねなければならない。
 尊親はこの自書草案を遺稿に抄録しており、多分これが本書の最初の刊本であろう。八木沢善次編・解題『二宮尊徳集』(近世社会経済学説体系、昭和10年)は遺稿を底本としていることは明らかで(井口丑二著『大二宮尊徳』を参照しながらも)やはり本書を収録している。なお、尊親は本書を遺稿に抄録するにあたり、自書草案と呼ばず、「未定稿」なる署名を採用している(1)。

 (1)なお、全集第1巻中に収められている「未定稿」とは同名異本なのであり、
全集編者の解説が混乱して要領を得ないのは実はこの両異本の関係を明確にしていないからなのである。

なお、遺稿内の「未定稿」本文のうち62番までの断章(つまり、195頁から227頁一行まで)が本自書草案から採られたもので、63番以降のものは現在まとまった形でとりまとめられてはいない自筆稿本(その多くは神戸の二宮家と二宮四郎氏が所蔵、散逸したものもある)を底本としている。断章編集の順序は最後の数編をのぞいては、だいたい本自書草案の通りである。勿論抄録であるから、採用本文と割愛された本文とがあり、また編者によって編集されたものも何篇かあることを充分注意してかからなければならない。しかし、だいたい原本には忠実な、正確な刊本と言ってよい。
(一)全集編纂上の基本的誤り

さて、では全集を編纂するにあたって本自書草案はどんな扱いを受けているであろう
か。編者の語るところによれば次の通りである。

「印刷後散逸したものもあるらしきを以て、標題と内容とは全く一致しない。依って
編者は遺稿に対照してその散逸分を謄写し、遺稿に掲げざる部と併せて原文を取揃
へ、然る後内容を対照し比較して見ると、遺稿に掲げたる順によれば、内容の類似し
たるものも、接続したりと見ゆるものも、全く前後混合の観あるを以て、大体に於て
異同に随って分類し、開闢進化、或は事相の発現に関するものを(一)の〔万物〕発
言集とし、悟道に関する中、一円一元に関するものを撰んで(二)の悟道草書帳とな
し、未定稿なる題目を避けて悉くこの悟道草書帳(二)に付属せしめ、(三)の未定
稿の名称は註記を施し嘗て此書名の一巻のありし由来を示すに止めた」(1-335以
下、解説)とあり、

 また別の箇所では

「報徳訓と題した原本はこれに尽くるものであるが、『万物発言集』、『未定稿』等
の中に於て、報徳訓に関する短文、又は貧富訓其他教訓類が少くないので、編者は之
を集めて『報徳訓』に付属せしめた」(1-53、解説)とある。

以上の証言から明らかな如く、編者は私見によって極めて大胆に「万物発言集」及び
「未定稿」を改作しているのである。原本の忠実な謄写本である今市報徳文庫の「万
物発言集」と全集刊本「万物発言集」とは全く同名異本といったものになってしまっ
ている。このことは、順序などに多少の異同が見られ一部に脱漏もあるが、今市の謄
写本の比較的忠実な刊本である井口丑二著『大二宮尊徳』に収載されている本文と全
集本文とを比較すれば明らかとなる(同335頁以下)。

要するに「万物発言集」や「悟道理論草案」などの重要な著作を私見によって改作し
たことは編者の犯した重大な誤りであるが、遺稿から謄写した本文と自書草案の草稿
本文などとも充分比較した上で、全集本文を確定するときにも杜撰な点がみられる。
また、報徳訓の部に集められている短文のほとんどは本自書草案からとったもので、
それらの断片・断章の編集順序に特別の配慮があるようには見受けられない。そし
て、必ずしも原本の順序に従っているわけでもない。

(1)本文の重複。(略)
(2)各断章の区切りと接続。(略)



(二)集録洩れの断章、断片 (略)

(三)抹消・訂正・加筆された本文の扱い (略)

最後にもう一度特に強調してかなければならないことは、すでに道歌の編集のことでも指摘しておいたように、全体にわたり編者の私見による体系化志向が極めて強く働いて、それがもっと自由な、尊徳の精神に即した攻究を阻害していることである。
例えば報徳訓三(1-545以下)は元来同68,69(1-587以下)に接続するものなのである。
この断章の初句がいわゆる「報徳訓解」(1-544以下)に通ずるからといってここに編入する理由はないおである。これをどのように読み、解釈するかはむしろ読者にまかすべきなのである。編者はすべからく克己・禁欲的でなければならない。

編者はその著「二宮尊徳の体験と思想」の中で、報徳訓39の肩書に天保6年10月26日とあり、その前後に「天道・人道」の問題が論じられていることから、尊徳独自の理論として明治初年頃から多くの人々によって―その最初の著名人が加藤弘之である―喧伝されてきた天道・人道論はこの頃に確立された、と説いている(同38頁以下)。
原本を見れば全くその通りであることはわかるのだが、原本を見ることができず、もっぱら刊本に依らなければならない研究者にとって、そこまで読みとることは不可能である。ましてや、これまで何回も指摘した通り、これらの刊本は、真筆選集の場合も含めて、全く編者の私見によって編集されているのであり、前後に配されているからと言って必ずしもそれがその断片の記載時期の前後を証明するものではないのであるから、刊本を手がかりに尊徳の思想的発展を跡づけることは不可能なのである。

付記

すでに一円融合会の例会席上で発表したことであるが、(53年6月号23~24頁参照)、本稿完成印刷後に明らかになったり、改めて考え直してみたりしたことを、本稿再録掲載にあたり、特に付記し読者の参考に供したい。

神戸二宮家の特別の御好意によって本稿でとりあげている『二宮尊徳翁自書草案』原本を拝借できたので、宮内庁図書課の専門官古関氏の協力を得て綴り糸をはずし、原本を一丁一丁裏表にわたり調査した―ほとんど全巻反古を使用しているから―、その結果いくつか新しい事実が明らかとなった。その詳細はまた別の機会にゆずることとして、特に本稿に関係あることを二、三述べよう。

一、本草案末尾にある尊親の跋文には「仮りに綴て二冊となしあれと」とあるが、実は仮綴じの段階では少なくとも三冊のノートと全くバラバラのメモ用紙二十数枚が集められていた。これは本草案の綴孔を調べた結果明らかとなったもので、全巻共通の綴孔は尊親が製本したときに出来たもの以外にはなかった。そして、全一〇二丁のうち第一冊は第一丁から四五丁まで、第二冊は四六丁から五五丁まで、第三冊は五六丁から七五丁までと七八丁、そして其の他はすべてバラバラのメモ用紙を集めたものである。

二、本稿では天道・人道論の展開時期について佐々井信太郎の説に従った。
それは「未十月廿六日」と日付を記載した断章(本草案四九丁)の前後に尊徳が天道と人道のことについて思索したあとを示すメモがたくさんあることから推定したものである。つまり、天道・人道論はだいたい仮綴本の第二冊に集中してみられるわけであるが、原本の書き込みの場合、墨や筆の具合からみてしかし、この一項は明らかに後から余白に書き込まれたものである。従って、この日付から先のような推定の下に、天道・人道論は天保六年十月頃に特に発展をみたものと結論づけることは困難である。
なお、この仮綴本の第二冊の最初の一丁に書き込まれているのが報徳訓七四、七五の二項で、そこには天保六年十月ではなく、むしろ天保五年六月以降において尊徳は天道と人道の区別について思索をこらしたのではないかと考えられる。なお、この報徳訓七四の最初の日付は次の道歌「業と口、こころの常に云々」作歌の日付であって、それに続くように編集されている新井新兵衛宛書かんの草案とは別項にしなければならないものであることは、原本書き込みの具合からも、また日付の面からも考えられる。さらに「未十月廿六日」と記載されている報徳訓三九は万物発言集六九と同じもので、重複している。

三、「未定稿」についての説明が全集では混乱がみられると指摘したが、今夏(昭和五三年夏休み)に掛川の大日本報徳社の古文書を調べていたところ、他の貴重な原本数冊と共に、「一円一元体気変満論」と題する尊徳の著作を発見した。そして、実はこれが全集では「未定稿」として収録されているものの、より古い稿本であることを確認することができた。内容、項目の立て方、目次なども全集刊本とは多少異るものがあるが、この稿本をもう一度清書してまとめたものが全集の原本に採用されたものと思われる。なお、明らかに全集編纂のときつけたと思われる附箋が貼ってあり、それには「未定稿となす」(最後の二字は虫くいのため判読できず筆者の推定)と書かれている。編者はなぜこうした立派な書名があるのにそれを採用せず、未定稿などとしたのか理解に苦しむところである。

四、拙稿をここに再録するにあたり佐々井典非古氏から誤植、その他の誤りをたくさん訂正していただいたので、より正確なものとなりました。感謝と共にそのことを報告いたします。(昭和53年11月6日)





© Rakuten Group, Inc.