家老服部家の家政改革&桝の改正尊徳先生 小田原藩家老服部家の家政改革を行う○二宮尊徳先生が、服部家で林蔵という名前で若党をしていたときの事である。 小田原では家老などの大家では、年末の勘定やらは一々計算せずに、来年の収入高から入用だけの金を勘定奉行か何かに借りてくるのが普通でした。 ちょうど50両の金が入り用なので、金次郎を使いにやりましたが、奉行が出てきて「受け取りを持ってきたか」といいました。 ところが、金次郎はにわかに顔色をかえ「拙者が使いとして参ったのに、受け取りは入りますまい。意外なことを承るものかな」と不服を唱えた。 「しからば金は確かに渡す。汝のような者なら決して間違いないだろう」と快く渡したという。 ○勘定奉行は、金次郎が律儀なのとしっかりしていることに感服した。 そこで服部氏の家に行ったとき、 「ここのうちには、なかなか立派な若党がいますなあ。一家の出納もこの男にやらせてみてはどうでしょう。」というと、 「なるほど金次郎という男は、いつも独り言をいって人のやっていることを笑っている。きっと胸に何か考えていることがあるに違いない。おさん(下女)のことでも、下男のことでも、やらせてみると何一つできぬことがないという男です。ひとつやらせてみましょう。」 そこでまず勝手方(台所)の元締めをやらせた。 すると第一に山男の取り締まりを始めた。小田原藩では、箱根の山が近いから、家老などの家ではたくさんの男どもがいて、別に一日どのくらいという定めがないから、途中で背負いかごを預けて、箱根街道でかごかきのアルバイトをする者が多かった。すると小銭が入るから、バクチをする、遊女遊びにふけることになる。 金次郎は、まずこの山男を取り締まって毎日山から採ってくる薪の量を決めた。山男も仕方がないから、嫌々ながら採ってきた。 (佐々井典彦氏によると、文化12年2月に、服部家を去り際に作った「御家政御取り直し趣法帳」に、中間三人のうちの一人が「山御仲間」となっており、年間経費見積もりに「炭48俵」はあるが、薪代がないことから、この話の信憑性が裏付けられるという) 第二に、おさんどんに勧めて毎日トタン箱に一杯ずつ墨鍋をコソげて集めると、天保銭一枚をやることにした。するとおさんらはしきりに鍋や釜のお尻をコソげて、いつでもきれいに磨いている。 薪はよく燃えて無駄にたく必要がないから、薪の入用が違ってきた。そこでその中から山男に褒美をだした。 おさんも喜び、山男も喜んで、勝手元がまず整ってきた。 それから、第三におさんの夜業を取り締まった。それまでも夜になると糸車で糸をひかせていたが、一晩にどれほどという決まりがなかったため、のんべんだらりと居眠りしながら引いていた。 金次郎は、日に何ほどの分量をやらねばならぬと決めて、それより余計に手間料をとらせたので、おさんらも励みだした。 金次郎のやり方は、まずこんなものであったという。 (佐々井典彦氏によると、文化11年の「五常講」の記録によると、各人別の褒賞品が出ている。女中には、足袋、手拭い、髪付け、手だらいなど、下男にはそろばんなどである。また、藁を月々二荷ずつ仕入れて、男たちに夜なべで縄をなわせる。800文の藁が、6貫540文と8倍以上に売れ、これを共同資金にした。同時に夜遊びの癖がなおるというのである。 尊徳先生のこうした工夫は、後に桜町の仕法で、精励する者へ鍬や鎌を褒美として与えたり、夜なべに藁をなうことを奨励することにつながっていく。いわば、この服部家での工夫が、仕法において人々を奨励しながら仕事に励ませるという方法の原点になるといってよいかもしれない。 ○(「随感随筆」より) 尊徳先生が、服部家の家政改革に従事していたとき、飯炊きの女にこう言った。 「釜や鍋の底に付く鍋墨だが、おまえはつとめてとってくれ。一升になったら、2銭で買ってやろう。何升でも持ってきなさい。」 女中はなぜ鍋墨がいるかわからなかったが、毎日削り落として貯え、一升になると持っていった。尊徳先生は約束通り、買い上げておき、人知れず竹藪に穴を掘ってそれを埋めたという。これは理でさとすより、むしろ利で誘ってこれをさとし、行いやすく、守りやすくさせ、結果として薪や炭の節約になったのである。 ○佐々井信太郎氏の「二宮尊徳伝」にはさらに細かい話がのっている。 尊徳先生が小田原藩士のある女中から、小遣い銭の借用を申し込まれた。 先生はその入用の理由を聞いた。女中はその理由を話した。 先生はいかにして返すかを聞いた。女中は給金で返すと言った。 給金は親元からすでに借りられていた。尊徳先生が問いつめると、女中は返済の方法に迷いかつ嘆いた。先生は返済の方法を教えた。薪炭の節約であった。 薪炭の現在入用平均高にて主人から請け負う。たき方を研究して節約する。鍋炭をを削り落とす。このようにして返済しなさいと教えた。 そしてたきかたを聞いた。女中は無造作にたいている旨を答えた。 先生は薪は全部燃焼して煙を出さないようにすること、まず3本にて鍋の底に丸くあたるようにすること、薪を去った後の火力、消し炭の利用を教えた。 そして節約した薪はまたこれを主人に売ればよいと教えた。 数日後、尊徳先生はその実況を視察したが、鍋炭が落としていなかった。そこで先生はなにほどかで鍋炭を買うことにした。いらい鍋炭は残らず落とされた。そこで始めて小遣い銭は貸し付けられた。 そして「借りた金は人の道である五常の道によって返済するべきである。五常によって積み、五常によって返す。これを五常講というと。」 (二宮先生道歌15) 日々(にちにち)に積もる心のちりあくた 洗い流して我を助けよ 尊徳先生 小田原藩主から表彰される ○大久保忠真公は、二宮先生に桜町領の復興を依頼し、いわば先生を世に出した人である。 文政元年(1818年先生32歳)の8月、忠真は大阪城代から老中となり、小田原領内に帰着した折り、11月に農政6箇条を公布するとともに、同月15日に酒匂川の河原で領内の孝子節婦奇特者を表彰した。 先生も行いが奇特として表彰された。 ○天保14年に先生が幕府に出した 「勤め方住所伺いたてまつりたてまつり候書付」にはこうある。 (できるだけわかりやすい表現になおした) 「京都・大阪の在勤が9ヶ月に及んで、このたび小田原に帰着したついでに、郷中を見渡したところ何となく近年怠惰にながれているようである。 このままではいよいよ困難なことになるであろうと、本当に嘆かわしい。 これから老中職となると、小田原城に居住することもないだろうから、今回こうして参ったのが良い機会だから、一体の心がけのあらましをさとしておこう。 詳しいことは、奉行たちから申し渡すから、一同油断なく励まなければならない。 1 風俗をつつしんで、世間の悪い習慣に流れず、一途に本心から精出して、良い習慣を失わないことが第一である。 右の条々を一同に申し渡されて、さらにわたしには次のとおり直々に仰せになりました。 「かねがね農業に精出して心がけが良いと聞いた。その身はいうまでもなく、村のためにもなり、近頃惰弱な風俗の中で、特に一段奇特なことであるからほめておく。 役を勤めるものはその身を怠っては万事ゆきとどかないことにもなり、小作たちの手本にもなることであるから、いよいよ励まねばならない。」 実にこの出会いのときの感激が、尊徳先生を、 一家を再興し、村の貧窮の者を助ける、いわば地域のリーダー的な役割から、 内村鑑三氏が「生涯の贈り物」とたたえたような、日本を代表する偉人 となったのである。 (二宮先生道歌16) 姿こそ 深山(みやま)がくれに苔むせど 谷うちこえて見ゆる 桜木 ☆○大久保忠真公は、文政3年(1820、大久保公40歳、先生34歳)9月、民間の提言を求め、役にたつことをもうし出させた。 小田原では、年貢を納める枡が4斗1升から4斗3升まで18種類くらいあって、標準とするべきものがなく、それに役人がつけこんで余分にとりたてるため、農民が苦しんでいた。 先生はしばしば枡を統一するようたびたび願い出たが、郡奉行や代官などから叱られるだけで改正は行われなかった。 ○そこで、大久保公の提言募集を受けて、二宮先生は、大久保公に、枡を統一するように申し上げたところ、「小田原及び江戸屋敷の諸掛かりの枡を調べてみよ」という仰せであった。 そこで古今の枡を調べてみたが、これといって基準とするべき枡がみあたらない。 その旨を申し上げたところ、何か適当な考えはないかというお尋ねがあった。 そこで、米という字に根拠をとって、深さを八寸八分とし、横を一尺3厘3毛とし、 これを3杯合わせて米一俵4斗1升と同様になると申し上げた。 小田原の諸掛りで相談の上、江戸屋敷に伺い、直接大久保公に申し上げたところ、採用になり、それから年々年貢を量る枡となった。 (「小田原領枡改革覚書」より) この間の事情を二宮先生は語録においてこのように語っている。 「わが小田原藩では、一定の正しい枡がなくて、それにつけこんで余分にとりたてられるので、農民は苦しんでいた。 私の父はこれを憂いとして、常に嘆いていた。 私は父のこの遺志を寝ても覚めても忘れることができなかった。 家老服部氏の求めに応じて、その家政を改革したのは私の本意ではなかったが、 服部氏は代々家老の家柄であるから、これが縁となって枡の改正が実現できるかもしれないと思ったわけだった。 その後、先君大久保忠真公の下問を受けて 「権量(ごんりょう)を謹(つつし)み 法度(ほっと)を審(つまび)らかにす」 という言葉と、枡改正の方法とを記して献策した。 その枡は高さ8寸8分を定めとする。 寸は十であるから、八十八でちょうど米という字にあたる。 先君はこれを良しとして採用され、私は始めて父の遺志を全うすることができたのである。」 尊徳先生によると、服部家の家政改革も実は父の枡の改正をという遺言を実現するためだというのだ。いかにも尊徳先生らしい話だ。 文政三年11月18日付けで、二宮先生が服部家の当主十郎兵衛に送った手紙がある。 この頃、二宮先生は服部家の依頼を受けて、その召使いとなり、林蔵という名で家政の改革にあたっていた。 その手紙の中に新らしい枡のことも出てくる。 「私が願い出た藩の枡の改正について感謝の米を差し出したいという農民の様子を聞きました。 改正の新枡ではかったお年寄りが 「このようなありがたいご時世もあるのか」といったと聞きました。 新枡については、領分はもちろん一同感謝していると聞きました。 かつまた旦那さまのご評判は小田原全体にたいへんよろしゅうございます。 まず始めにあたって終わりを明らかにすることが大切とぞんじます。」 父の遺志を実現させて、父が生存ならこのくらいと思われるお年寄りから喜ばれて、 心底喜んでいる金次郎がうかがわれる。 (二宮先生道歌16) 増減は 器かたむく 水とみよ あちらに増せば こちら減るなり (夜話3-41) 先生はこうおうせられた。 「世の中は、とかく、増減のことについて騒がしいことが多いけれども、 世間で言う物は、たとえば水を入れた器の、あちらこちらに傾くようなものである。 あっちが増せばこっちが減り、 こっちが増せばあっちが減るだけだ。 水そのものには増減はない。 あっちで田地を買って喜べば、こっちには田地を売ってなげく者がいる。 ただあっちこっちの違いがあるだけだる。 本来は増減はない。 わたしの歌に「増減は 器かたむく 水とみよ」というとおりである。 それわたしが説く道の尊ぶ増殖の道は、それとは異なり、直ちに天地が育てる力を助ける大道であって、米五合でも麦一升でも、天つ神が積み置かれた無尽蔵から、くわと鎌の鍵をもって、この世界に取り出す大道である。 これを真の増殖の道というのだ。尊ぶべく、努めるべきことである。 文政3年に二宮先生が、成田村の小源太にあてた書簡がある。 小源太が小田原6箇条は牛のくびきのようなものだと声高に非難し、言いふらしているのをたしなめたものである。 「おそれおおいことだが、殿様が借金のあるときに人民が困窮するのは天命だと思う。 たやすく人の力で変えようとしてかなうものではない。 けれども四季に春と夏があり、一日に昼と夜があるように、いまお前が言うとおり、 現在の政治が悪いのはちょうど夜だからなので、このときにはただ自分を修養して明日を待つよりほかに仕様がない。 明日といってもそう遠くはない。 江戸紅葉山あたりに太陽が出て(忠真が老中に就任したことをいう)、日本に輝くこ とは疑いがない。 この光明は小田原藩主大久保忠真候である。 それなのに夜明けのうちから心配するのは迷いというものである。 太陽の運行を考えて、いまは自分の本業をやるより方法はない。 日盛りになれば、雪や霜も消える。 (略) いま、お前が、智・仁・勇の三徳にたって、六箇条非難を捨て、殿様のお徳とお手柄をほめたならば、1,2年のうちにお前の村の人々は殿様の徳をほめることになるだろう。 一つの村がわかってくれば、隣接の村もみな同じように考え、近くの村々も理解し、 その影響はどれほどか、はかることもできないだろう。」 ○文政3年、尊徳先生34歳の時のことである。 小田原の代官をしていた鵜沢作右衛門のところへ尊徳がやってきた。 そして藩政に関する意見を述べた。 そのころ尊徳は、枡の改正に成功し、服部家の借財償還や、下級藩士のための「5常講」の創設にも力量を発揮しており、百姓の身分といえ、代官にさしで建策することがあった。 「いま地方(じかた)の役所でそれぞれお取り用いられている名主たちを見ますと、多くは上へ目がついて、横に走り、いずれも天命にそむいて、自分のためにばかり働くやからです。 ですから今から10年もたちますと、かわいそうながらつぶれてしまうにありません。 今のうちに名主を退役させて、それぞれ本業に志し、深く反省するよう厳しくご指導なさらないと、いずれも家業を滅ぼすことになるでしょう。」 尊徳先生はこういう考えを長らく考えた結論だと、鵜沢に説いた。 鵜沢は言うことが理解できず、差しさわりのない対応をすると、 「もしや疑わしいとお思いでしたら、15,6年もたったらおあけください。その時はきっと間違いなかったことがわかるでしょう。」 尊徳先生は、前年の暮れからこの夏にかけて、尊徳先生は近郷近在の名主たちに手紙を出していた。 この手紙には文政元年11月、藩主大久保忠真が領民を諭した農政6箇条などをのせてあった。 その告諭には、名主・村役人に対して「率先しておきてを重んじ、正路を踏むように。年貢などの取り扱いは、かりそめにも不正のないように、小百姓たちも立ち行くようにせよ。拝借金や上納金の割り当てにも、手前勝手やえこひいきをするな。帳簿はときどき公開せよ。職務遂行の経費は、できるだけ節約せよ。村々の困窮の多くは、名主や村役人が勝手にすることから起こるのだ。一時の思いつきや手柄たてなどで、村民を難渋させることのないように」などと書いてある。 尊徳先生は、 「この書を日夜お心がけなされれば、富貴にして安泰である。疑いなく惑いなく、修行なさいませ。 栢山村(かやまむら)金次郎」と書かれた。 しかし、名主たちの反応はきわめて鈍かった。 それから17年の歳月が過ぎた。 天保7年の早春、桜町に出張した鵜沢作右衛門に向かって、尊徳先生はこの話を持ち出した。 その後、彼らはどうなったか、吉田村の徳兵衛、曽比村の杢右衛門・・・実に13箇所、14軒の名主が、ここ15,6年の間に没落していた。 そして、成田村の小源太への手紙の控えを鵜沢に見せたのであった。 尊徳の忠告を無視した小源太は転落の道をたどり、17年後には無宿者となり、牢に入っていた。 「まことにあさましいことだ」と先生は仰せられた。 鵜沢は恐れ入って、大久保忠真候あての復命書に書き綴って、小田原藩の改革に尊徳を起用するよう申し上げたのであった。 「私は17年以前の代官の頃から、金次郎の意見を用いて誤りがなく、その予言が当たっているのを見ました。 このまま過ぎれば小田原領内に天災が続出して取り返しがつかなくなります。 ともかく村々を復興させる道をお開きください。」 と証拠の手紙を添えて申したのであった。 真実に守る力の弱ければ まずわが身から持てぬ世の中 成田村小源次宛ての二宮金次郎の手紙 このあいだ話しかけたままになっていたことを聞きたいと思う。 さて私の考えを少し話そう。 文政元年、大久保忠真(ただざね)侯が老中就任の折、出された農政6か条は牛のくびきのようなもので、小田原領内の人民が皆な心配している。 機会があって、その一部についての悩みはおおよそ聞いたが、6か条の始めから終わりまで、いっぺんに聞いたのはお前からが始めてだ。 だから私はお前こそ大君子と思う。 したがって、民衆の心の水源のようなもので、その水源で嘆きをそそげば、その流れは悲しみにひどく濁る。 水源で悲しみをそそがなければ、その流れは清流となる。 人間の元から備わった性は、《大学》のなかで「明徳」といっているように清いものである。 《論語》では「富貴は天に在り」といっている。 人が無産と低い身分に暮らすのは天命である。 人民や役人の罪ではない。 天の命の下るときなのである。 《中庸》には「貧賎に素しては貧賎を行い、艱難に素しては艱難を行う。君子は入るとして自得せざるはなし」と書いてある。 恐れ多いことだが、殿様が借金のあるときに人民が困窮するのは天命だと思う。 たやすく人の力で変えようとしてかなうものではなし。 けれども四季に春と秋があり、一日に昼と夜とがあるように、今お前が言うとおり、現在の政治が悪いのはちょうど夜だからで、このときにはただ自分を修養して明日を待つよりほかに方法がない。 明日といってもそう遠くはない。 江戸の紅葉山(江戸城)あたりに太陽が出て、日本に光明が輝くことは疑いない。 この光明は小田原藩主大久保忠真侯である。 それなのに夜明けのうちから心配するのは速いというものである。 太陽の運行を考えて、今は自分の本業をやるよりほかに方法が無い。 日盛りになれば、雪や霜も消える。 今お前が言う6か条は、私はちょうど雪や霜のようなものと思う。 民が困窮する時に悪政が行われるのは、寒夜に雪や霜が降るようなものである。 今お前が6か条を批評するのは、悪を憎んで善に導こうとするためである。 だから堯・舜の道である。 しかしあの堯・舜の道と比べ、教えるところに違いがあると思う。 《中庸》によれば「舜は問うことを好み、爾言(じげん:卑近な言葉)を察することを好み、悪を隠して善を揚げ」たという。 だから善に導くために、悪を批評することは堯・舜の道とは全く違うことと思う。 6か条を批評すれば人に知れ、人が知れば行動する。 批評しなければ、人も知らないし、動きもしない。 現在、木食観正(もくじきかんしょう)という高僧があって、光明真言を唱えておられたところ、1,2年のうちに、約6万人の講ができ、昼夜に光明真言を唱えている。 今お前が、智・仁・勇の3徳に立って、6か条非難を捨て、殿様の徳とお手柄を褒めたならば、1,2年のうちに人々は殿様の徳を褒めるようになるだろう。 1つの村が分かってくれれば、隣りの村も皆な同じように考え、近くの村々も理解し、その影響はどれほどか、はかることはできないだろう。 文政3年12月 二宮金次郎 成田村 小源次殿 追伸 《論語》には「直きを挙げて諸(もろもろ)のまがれるをおけば、よくまがれる者をして直からしむ」とある。 善を好めば、村にも、領中にも善人か、善行を行う者があるだろう。 たとえ諸事にわたって行き届かなくても、何か一善一芸に到達しているだろうから、その心をもって、悪いことを言いふらさず、善いことを褒めれば「舜天下を有(たも)ち衆に選んで皇陶(こうよう)を挙げしかば不仁者遠ざかりぬ」とあるが、そこをよくよく考えられるように。 一 源秀義はこう言っている。 「いつも人の欠点のみを数えたてて言う人は、その人自身に必ず過ちが多く、不義があるものだ。 自分の心に過ちがあるため、他人の欠点をあげて自分の欠点のなぐさみにしている。 自分に過ちがない人は、自分に悪がないから他人の欠点を語らない」と。 一 最近、軽業師の曲芸を見た。 いろいろの物を積み重ねた上に人を乗せたり、高いはしごに登って曲芸をして、人々を驚かせたが、見ているうちにふと心に気づいたことがある。 自分の身体にものせたものが多いものだ。 まず、わが家族10人余、家屋敷や諸道具に田畑や山林、金に米、少しであるが人に貸したものもある。 軽業師は曲芸をやっていても終ればほっと一息ついて休むことができる。 しかし「人は命の続く限り、この荷物を持ってゆかねばならない」と、私の父が存命のころ申し渡されたことがあるが、考えてみれば危ないことである。 自分の品行が少し悪くなると、載せたものは皆な崩れ落ち、住居も失って、毎日日雇い稼ぎなどして暮らす者も、村々には多くあるものだ。 恐ろしいのは人の心構えである。 国では殿様、村では名主、家では主人、その3人の心構えが大切なのだ。 和歌に 真実に守る力のよわければ まずわが身からもてぬ世の中 という歌がある。 孔子も「わが道はただ一つのことで貫かれている」といっている。 |