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駿州御厨(みくりや)郷中への教訓

この教訓書は、天保8年春、静岡県駿東郡、御殿場近くの御厨(みくりや)郷において二宮尊徳先生が話されたものを記録したものである。
先生の話しぶりをそのまま伝える貴重なものである。



家を保つも身を治むるも、金銀のできるも、何の不思議はない。誠の一つをもって貫くのじゃ。誠は天の道、これを誠にするは人の道というものじゃ。粟を蒔けば粟が生え、麦を蒔けば麦が生え、米を蒔けば米が生え、皆その通りに性命を正しうする。これを天の道という。
それをおのれおのれが勝手に朝寝をしたり、遊んで食ったり、寝ていて食ったり、ぐたついて過ぎようとは、粟を蒔いても麦を蒔いても、米を取ろうとするようなもので、田にも畑にもろくろくな肥料もなさずにおいて、働かせようとするゆえ、去年のような凶作には人より先へ、食糧を天からお取り上げじゃ。これが粟を蒔いて粟が生えたのじゃ。田畑を飢えに及ばしたからおのれおのれも飢えに及ぶのじゃ。何の不思議はない。これが天の道じゃ。かように善悪ともに報うのじゃ。
さすれば飢えるともくたばるとも勝手次第にするがよい。平生田畑へ肥料をたんとやっておいた人は、去年も今年も食糧に差し支えはない。米を蒔いておいたから米が取れたのじゃ。皆々銘々精根次第の手細工じゃ。
それじゃによって、飢えるものは飢えても、くたばるものはくたばってもよけれども、同じ村に生まれて、同じお百姓同志なれば、同じ家内も同然のようなれば、家内の肉のけずれるのを見ていても済まぬによって、有る者はこの節融通してやるがよい。
50年に1度のことなれば、この節、人の命の救い時じゃ。救うた者は忘れるがよし、救われた者は子々孫々まで忘れぬがよし。
また、御拝借5か年賦は、銘々その日その日の家業の外に、夜、縄なりワラジなり、または山付きならば定まりの外に朝起きして炭なり何なり、それぞれ得手得手の余業を励み勤めるなり。その上一統申し合わせ大倹約をいたし、また祭礼仏事等も、寺々への付け届け厚く相勤め、そのほか普請(ふしん)家作(かさく)・月待・日待・振舞いごと、その外何によらず、不用の事、不用の品を少分たりとも求めること一切慎むのじゃ。このたび露命をつなぎし事を忘れずば、5年や10ヵ年は何でも勤まる倹約じゃ。この所をよくよく感心して、本心に立ち返り勤めさえすれば、何ほどの凶作でも、凶年もないが別に豊年もない。ぜんたい年々豊凶は6,7月より知れてあることじゃ。いよいよ今年5分6分、2分3分作の陽気と見えたら、それぞれの暮らしを付けねばならぬ。ことに去年のこの辺は、2分3分と見定めても、それをうかうかと平年の7,8分の暮らしをしておるによって、さあ狂言が違うて来たのじゃ。
田畑の事ばかりじゃない、何事もこの通り、前々より商売が不景気なら、その通り不景気の暮らし方を付け、その時々を計って暮らせば間違いないのに、その振舞いが違うゆえ、凶作が来たらにわかに目が覚めたのじゃ。皆、天の思召(おぼしめ)しに背いたによって、かく難渋つかまつるのじゃ。
今日より天の言い付けどおりに守りさえすれば、返す返すも言う通り、粟を蒔けば粟が実り、米を蒔けば米が実り、善い種を蒔けば幸いが実り、悪い種を蒔けば害実るが、天の誠の道、これを誠にするは人の道なりとは報徳の事なり。
 小人は小金ができると上を見はじめる。それよりだんだん奢りが始まり、衣食住、髪形、諸道具類、唐物(からもの:中国からの輸入品)、和物(わもつ:京都西陣織など)を好み、遊芸、盤芸(碁・将棋)、茶の湯、俳諧、生け花・立花と、所々の遊客寄り集まり、それより家業は次第に不精(ぶしょう)になるほど、飲食をよくして色欲と、次第次第、貧乏不如意となるにしたがって、いよいよ奢りが強くなっては、人のいさめも聞かず、凶作が来ると人より先へ飢える。
その裏は小金ができるほど吝嗇になり、おのが勝手を好み、利欲が強く、人を見下げ、人は心柄じゃとおのが自慢し、小金ができるほど道を失う。
それより貧乏人はおのれが不精(ぶしょう)、不始末、惰弱はいわず、人をそしり恨みて、小言が始まり、悪いたくみが次第につのり、押し借り打ちこわし、その小言が止むと色が悪くなり、いよいよ飢えに及ぶのじゃ。その時に至り後悔しても仕様がない。これから本心に立ち返り、家業を励むよりほかはない。福者のためには貧乏人が福の神じゃ。貧乏人が寄り集まりて、売ってはふやしてやり、買ってはふやしてやり、」つまるところは皆、福者の果報になるじゃによって、少しは借り倒されても、もらい倒されても了簡(りょうけん:勘弁)したがよい。
これが世界中金持ちばかりでは、売りに来る人も買いに来る人もないが、その時は田も畑も預ける人ばかりで作る人がなくては、その時は福者も金持ちも、貧乏人に引き換えて、渇命に及ばにゃならぬ。ここをよくよく考えてみれば、貧乏人じゃとても見捨てにはならぬ。また貧者も去年より引き続いて種々恵みをうけても、有る者は当たり前などと冥理(みょうり)を知らぬ大罰当たりのものもまれにはあるものじゃが、心得が悪いと貧する上にも、またまた子々孫々までも貧する種をまくじゃ。よって有り難いという事を少しも忘れてはすまぬ。貧者と福者とは話が違う。皆、耳にばかり聞かぬように、腹の中へ聞き込むがよい。
天照大神宮様は、田も畑も鍬も鎌も何もないところへ天降りましまして、ご丹誠遊ばされたのじゃ。それを今、望み次第に、田でも畑でも、鍬鎌でも諸道具でも、困らぬようにできているのじゃ。ただ誠の一つさえ取り失わねば何も不足を言うことはない。
不足言うはおのれが皆嘘ばかりつくしておいたその報いじゃ。



「小田原藩の研究」内田哲夫 164ページより抜粋

 静岡県御殿場市の竈地区は、江戸時代には駿河国駿東郡鮎沢庄御厨領竈新田といった。
寛永10年(1633)以来、一時期を除いて小田原領であった。

 竈新田は、奥住新左衛門が開発した。土地の人は奥住さんと呼ぶ。
諏訪神社と玄清寺はその時創建され、奥住さんはその後小田原の殿様稲葉氏の家来となった。

内田氏と御殿場市史編さん室勤務で竈出身の渡辺好洋氏で、竈新田の成立を調べた。
諏訪神社の文書を調査したところ、明暦2年(1656)9月に実施されたこと、年貢割付は検地後の明暦2年10月のものが最も古く、奥住新左衛門手作地が免租となっていることが分かった。

1971年10月1日、内田氏は稲葉氏の最後の居城であった京都市伏見区淀に出張した。
「稲葉氏永代日記」から御厨関係の史料を抽出する目的だった。
淀の稲葉神社所蔵の日記を旧藩士子孫の渡辺八之氏及び田辺陸夫(家老田辺権太郎家子孫)氏立会いの下で調査した。すると田辺氏は
「奥住というのは稲葉の家臣で、つい先ごろまで子孫がこの町に住んでいましたよ。たしかその家の先祖はキリシタンとかで、それについての史料を、親父が書いてますよ」と「奠(てん)城温故会第拾参回報告」という小冊子を示された。そのなかに陸夫氏の父、田辺密蔵氏「転切支丹(ころびきりしたん)類族の取扱と奥住家について」という報告をされているという。

奥住新左衛門
 この竈新田の開発者は信州真田氏の浪人である。
「奥住覚兵衛親類書」によると、新左衛門は越前浅井氏の家臣で、浅井氏滅亡後、真田氏に仕えたらしい。その後浪人して川中島付近に隠棲した。

 新左衛門御厨にあらわれる
 大阪の陣もすぎ、徳川氏による天下掌握後、寛永初年のころ、川中島を離れ、富士山南麓へ現れた。御厨の二枚橋村の勝又謙次氏宅には、新左衛門の槍や軍扇が伝えられている。

 御厨の領主
 寛永初年の当時、御厨地方は徳川忠長の支配地だった。
 天正18年(1590)後北条氏が滅亡し、家康が駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国領有から、関八州領有へと移しかえられ、この地方は秀吉の家臣中村一氏に支配され、慶長5年(1600)一氏が伯耆(ほうき)の米子に転封後、しばらく幕府領となった。
慶長14年(1609)家康の子頼宣が水戸から駿府に入り、元和5年(1624)忠長に引き継がれた。

 竈新田を開く
 新左衛門が竈新田の開発を手がけたのは、「竈新田開発記」は寛永7年(1630)となっている。

一 奥住新左衛門斯波吉俊、越前国浅井氏の牢人となり、其後信濃国真田伊豆守様え勤められ、しばらくして暇、同国川中島に蟄居、しかして後寛永7年当所見あそばされ、大沢新田九郎右衛門え委細聞し召され、則ち小田原城主稲葉丹後守様え勤められ、当村御取立て、同15戌寅草創あらましなり。(以下略)

 小林家の移住
 この間「開発記」によれば、寛永11年(1634)に、小林甚五右衛門吉重の長子五郎右衛門吉元と、二男治郎右衛門吉次の2人が、新左衛門のあとを追って、竈新田の開発に従った。
その後、もう一人の甥安兵衛吉永も、正保3年(1646)移住し、彼らが同新田の中心となる小林一族の最初の人々である。

 稲葉氏の支配
 寛永9年(1632)、領主忠長が家光によって改易され、御厨地方は、寛永9年から小田原城主に封ぜられた稲葉丹後守正勝が、1万石の替地として支配するところとなった。

 ころびキリシタン傑心
 傑心は甲州萩原村の出身で御厨の新橋村に居をすえた。傑心は有力なキリシタンだった。
「吉利斯督記(キリシトキ)」に「ミクリヤに傑心というよきキリシタン」がいる。
もともと稲葉氏は、キリシタンと関係が深く、一族の女性に数人のキリシタンが存在した。
竈新田を開発した新左衛門が転びキリシタンであり、新橋村には転宗して間もない傑心がおり、その娘は稲葉氏の家中に嫁している。
 傑心は慶安2年(1649)4月28日、新橋村で64歳で死んでいる。藩では死骸を塩漬けにして、翌日宗門改役井上筑後守に指示を仰ぎ、死骸取直しの許可を得て、はじめて埋葬を許されている。

 新左衛門の仕官
 新左衛門が稲葉氏に仕官したのは、竈新田完成4年後の寛永19年(1642)であるとされる。
この時新左衛門は自ら開発した竈新田を、そのまま所持地と認められ、稲葉氏の家臣となった。
仕官後の職については、正保4年(1647)の清後村の年貢割付に発行者として名があり、以後承応元年(1652)まで引き続いて、御厨のみならず相模国足柄上・下二郡の村々の割付にも連署していることから、郡奉行の地位にあったと内田氏は考えている。

 新左衛門は、稲葉氏に仕官した寛永19年、信州から諏訪神社を勧請し、翌年萩原村にあった燈油庵を竈新田の諏訪神社隣りに移して、諏訪大明神社別当源清寺(玄清寺)としている。

「親類書」と一緒に掲載されえいる「御用部屋書抜」に、奥住喜間太が、

「私先祖稲葉美濃守家来転切支丹奥住新左衛門系本人同前奥住与次右衛門玄孫奥住喜間太娘当亥(安永8年)3月25日出生致
として、幕府に届け出るべきか、淀城の御用部屋が江戸の屋敷に問い合わせ、当の娘は6代目故以後異変死失について届けるには及ばないという幕府の回答を得た。
与次右衛門は正保3年仕官すると、「古高600石召し出され、御側御用人相勤め」とある。


「報徳要典」の年表で御殿場関係はこうなる。


天保8年4月10日 伊勢原加藤宗兵衛、片岡村大澤小才太、竈新田小林平兵衛来謁し、先生加藤宗兵衛のために仕法を授く

天保9年12月  小田原領一円仕法取扱を命ぜらる
この年      駿河国御厨郷中へ注意箇条書申渡す

天保10年正月14日 駿河国藤曲村に仕法を行う

天保11年11月  駿河国御殿場村に仕法を行う
 
天保12年3月6日 小林平兵衛来り謁す

天保13年3月14日 先生在郷の処へ駿河御厨地内菅沼村名主重右衛門、組頭兵四郎、御殿場村ゑびすや、同国庵原村柴田権左衛門同道、竈村小林平兵衛、小田原藩男澤山崎の添書持参仕法嘆願す

天保14年  この年 駿河国竈村小林平兵衛知足鑑を授く 平兵衛先生の仕法を守ること堅く三代に伝う。今や報徳金3万余両に至るという。


「小田原藩の研究」より抜粋

 御殿場村のあらまし

 御殿場村は元和元年(1615)徳川家康の旅宿として建てられた御殿を中心に作られた新町であるが、翌年家康の死によって御殿は一度も使われることなく終わった。
付近にはすでに杉原・上田中・餅交・杉之内などの集落があり、これらの旧村と新たに移住してきた人々によって御殿場村が形成されたと考えられる。・・・
 当地方は矢倉沢番所を通過する相州側と、沼津・三島から水窪・伊豆島田の十分一役所を通過する駿州側及び富士籠坂越えの甲州・信州側の諸荷物が交錯する交通上の要地で、御殿場村は相州ー甲州・信州ー駿州の諸荷物の問屋場としての権利を認められていた。
しかし相州ー甲州の経路には古沢村経由という別ルートがあり、駿州ー甲州の経路には神山ー茱萸沢ー須走ー富士吉田という宿継ぎがあって、新町としての同村の地位は揺るぎがちであり、近世を通じて何回かの訴訟が行われている。・・・
 天明8年(1788)の記録では、油屋、茶碗屋のほか地名・国名を冠する屋号の家々が多く見られ、当地方の村役人たちの会合に酒や飯を提供する宿屋・茶屋が散見しており、在郷町として当地方の経済上のかなめであったことは事実のようである。
 これには近江国日野より出て、享保3年(1718)に当地で開業した日野屋の存在があずかっていると見られる。
同家ははじめ漆器類のほか穀類・繰綿・茶・砂糖・紙を扱い、やがては呉服・太物(木綿・麻織物)まで手を広げ、寛政12年(1799)には名主平右衛門から酒造株を買って酒造業をはじめ、この地方では文化9年に相州関本村、文政2年(1819)には小田原近在の池上村に進出するほどに発展した。
この間文化4年(1807)には小田原藩によって名主格に取り立てられ、弘化元年(1844)にはさらに5人扶持を給されて、藩の御用商人として遇されている。
酒造高も御殿場村で900石、池上村で300石となり、当地方最大の商家としての基礎を築くにいたった。


 報徳仕法の推進

1 日野屋の活動

 天保8年の尊徳の回村に際して、当地方にも割渡された仁恵金は、藩の蔵米の放出という形をとっていた。
この蔵米放出の操作は主として日野屋が当っていた。
日野家は天保の飢饉に際して、天保7年10月に報徳金120両を拠出し、その後も竈新田の小林平兵衛らと共同して、極難者への夫食(ぶじき)米の拠金・拠米を、当村内での村再建の動きも、その中心は日野屋だった。当主山中忠助のほか、日野屋兵右衛門・同惣兵衛などの名が仕法史料に散見される。報徳加入金にも計400両近くを拠出している。小林平兵衛と日野屋が、報徳仕法の原動力となった。

2 個人仕法の開始(略)

3 一村仕法の推進
 天保8年3月、天保飢饉に際して尊徳の回村があり、藩主仁恵金に村内上層農民の拠出金などを加えて58両とし、極難・中農層を中心に救済を図った。

 御殿場村では、天保10年8月の佐野屋源兵衛に対する個人仕法開始の後、翌11年3月、村役人及び世話人惣代の連名を以て、二宮尊徳宛に「難村御取直御趣法」を願い出た。
いわゆる報徳仕法実施の願書である。
同書では、天保4年及び7年の大凶作と、同8年3月の前記回村に触れた後、同村が「御田地少く、町場同然」のため、「その稼渡世つかまつり候者多く、飢饉以来何分取続きかね」るため、「難村御取直御趣法」を願い、この上は「驕奢をはぶき、きびしく節倹をとげ、相互に譲り合う」ことを申し出ている。
 これに対して尊徳は
 1 村高・戸数・人口
 2 天保8年の仁恵金など飢饉の救済についての経過
 3 借財の取調べ
 4 村民の困窮の程度についての明細
等についての報告を求め、同村28日には、米240俵(代金100両)と金320両、計430両を報徳貸付金として村に与えている。
この拝借証文は、同時に尊徳宛の報告書の形をとっている。
 1 天保4年以来の大凶作とその救済について謝意
 2 同8年春の施米の状況
 3 名主平右衛門の大借とその処置
 4 村内難渋の根元は、本業を怠り、分限を失い、奢りに長じたところにあること
などをあげ、続いてそれらの反省から、万事倹約を宗とし、禁酒・禁煙・粗服・粗器の使用をすすめて、不用な道具を売払い、仏事・婚礼・各種祝儀を内輪にとどめ、伊勢太々講や日待・月待などの行事を簡素に行うなどを村中申し合わせて実践した結果、350両余を調達したものの、村内のみの力では救済不能のため、これらを報徳加入金として差出し、改めて430両を報徳善種金として拝借し、この内262両2分を名主平右衛門の借財分に当て、残り77両をもって村再建の土台金とするというもの。
 村中で差し出した350両の内訳は、
  諸事倹約により       52両3分余
  名主借財弁済分拠出    126両1分余
  国産方拝借勘弁残金積立金分 30両
となっている。
このうちの諸事倹約を見ると、時期は天保10年1月から翌11年2月末までで、最初の1月にまず37人が計36両余を拠出しているが、この中の32両は日野屋関係の手によっている。14ヶ月に98件の拠出があり、ほかに名主弁済引受金には、日野屋の100両を別に、101名が金30両から銭300文にわたって拠出している。(略)


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